織田信長の上洛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 09:36 UTC 版)
将軍就任に向けて無駄に歳月を浪費した事態は、新体制を固めきれない三好政権には好ましくない結果をもたらした。同年9月、前将軍・義輝の実弟である足利義昭を推戴する織田信長が上洛軍を発したのである。近江国の六角氏を退けて進軍する織田軍とは、「義栄を戴いての決戦」を選択肢に残していた三好氏ではあったが、結局は阿波国への退避を選択した(義栄の病没により断念した可能性もある)。その後も、織田氏への抵抗を幾度も示した三好氏ではあったが、戦局の悪化により畿内復権の道は閉ざされた。 義栄が死去しても、弟の義助によって家名は存続された。だが、義昭政権の後ろ盾であった信長軍は三好氏(その没落後は長宗我部氏)が単体で退けるには力の差がありすぎた点に加え、若干の奉公衆はいるものの独自の大兵力がない公方家であり、義栄死後には小笠原成助に行動を妨害されるなどして、徐々に存在感を消していった。
※この「織田信長の上洛」の解説は、「平島公方」の解説の一部です。
「織田信長の上洛」を含む「平島公方」の記事については、「平島公方」の概要を参照ください。
- 織田信長の上洛のページへのリンク