縁切寺法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 04:50 UTC 版)
東慶寺は、近世を通じて群馬県の満徳寺と共に縁切寺(駆込寺)として知られていた。この制度は女性からの離婚請求権が認められるようになる1873年(明治6年)5月の直前、1870年(明治3年)12月まで続く。 東慶寺の「由緒書」には「覚山(開山の覚山尼)貞時へ願はれ候は・・・女と申すものは不法の夫にも身を任せ候事常に候う事も尋常に候えば、事により女の狭き心によりふと邪の心差詰めたる事にて自殺杯致し候もの有之、不便の事に候間、右様の者有候節は三ヶ年の内、当寺え召抱置、何卒夫の縁を切り身軽に致し存命仕ませ候寺法」云々と願い、北条貞時も母の申し出故に是非もなく、朝廷に乞いて「勅許を蒙り夫より世上に名高く寺格も格別なり」とある。しかしこれには確証が無く、穂積重遠は「これははなはだ研究を要する。…ともかく縁切寺が東慶寺だけでなかったことは確かで」と書き、先々代住職井上禅定も「縁切寺法が開山以来連綿と続いているという口上書きは遡及扱いにして開山に付会した書き方である」とする。三年も一緒に暮らしていなければもう夫婦ではないというのは江戸時代初期には既にあった社会通念であり東慶寺に限ったことではない。この「由緒書」の記述は江戸時代の感覚である。書かれたのは1745年(延享2年)。幕府に差し出したものである。ただし少なくともその江戸時代中期以降東慶寺にはそう伝えられ、そう信じて駆込みに対処してきた。
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