統一ヘッセンの晩年(1479年 - 1567年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/09 14:32 UTC 版)
「ダルムシュタットの歴史」の記事における「統一ヘッセンの晩年(1479年 - 1567年)」の解説
1479年に最後のカッツェネルンボーゲン伯が亡くなり同家が断絶した後、ダルムシュタットはヘッセン方伯ハインリヒ3世のものとなった。これによりこの都市は重要な副首都としての威勢を失い、権力中枢のカッセルから遠く離れた前哨基地という位置づけに落とされた。城館や市壁があるにもかかわらず、その社会構造はかつての農村にふさわしいものになっていった。この時代の初期で重要なことは、1489年8月10日にハインリヒ3世がすべての都市特権の有効性を容認したことである。これによって都市権および市場開催権はそれまでの伯の束縛を逃れ、市当局の管理下に置かれることとなったのである。ただし、方伯はその代償にこの都市に経済的支援を義務づけた。こうしてダルムシュタットは方伯のひどい財政状況の一端を押しつけられ、その借金によって経済的に没落していった。 だが、ダルムシュタットにとって本当の変化は、フィリップ(寛容伯)が方伯に即位した1518年に訪れた。この年にフランツ・フォン・ジッキンゲンがダルムシュタットを攻撃した。この時、比較的新しい市壁ですら技術的に絶望的に時代遅れのものとなっており、包囲戦を長く持ちこたえる事はできなかった。これにより城館は初めて破壊され、都市はその後何年も破壊された建物の再興に費やさねばならなかった。しかし、この街は包囲戦以前の姿に再建され、防衛施設の根本的な刷新は諦めなければならなかった。その結果、わずか数年後の1547年のシュマルカルデン戦争で皇帝軍の襲撃を受け占領された。このため城館と都市の大部分が再び破壊されたのである。 この戦争の原因の一つにシスマがあった。フィリップは1527年にヘッセンに宗教改革をもたらし、これにより皇帝カール5世に追放刑を宣言されていた。その後の両者の対決でダルムシュタットは引き続き停滞した。しかし、フィリップは明らかに前任者よりも大きな負担を強いたにもかかわらずダルムシュタットの経済は頑健であった。政治的も、フィリップの治世には多くの会議や外交交渉がダルムシュタットで行われている。 内政面では、都市運営階級と市民階級の間に依然大きな隔たりがあった。このため多くの役所が二重構造化していった。たとえば市長は、市参事会が1年ごとに選出する「ラーツビュルガーマイスター」(後のオーバービュルガーマイスター)と市民階級がやはり1年ごとに選出する「ユンゲラー・ビュルガーマイスター」(またはウンタービュルガーマイスター)がいた。このように市参事会と市民の間には緊張関係があり、市参事は十分に市を代表するとは言い難い状況にあった。
※この「統一ヘッセンの晩年(1479年 - 1567年)」の解説は、「ダルムシュタットの歴史」の解説の一部です。
「統一ヘッセンの晩年(1479年 - 1567年)」を含む「ダルムシュタットの歴史」の記事については、「ダルムシュタットの歴史」の概要を参照ください。
- 統一ヘッセンの晩年のページへのリンク