箱根駅伝復活にむけて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/02 23:29 UTC 版)
1989年日本体育大学大学院修了後、長距離専任の指導者を探していた神奈川大学にコーチとして採用される。当時の神奈川大学は箱根駅伝出場から15年遠ざかっていたものの、大学側が大後が赴任する数年前から、スポーツ推薦制度を採用し、陸上競技部にも高校時代に地元・神奈川県を中心に実績のある選手を入学させていた事もあり、当初の大後は数年の強化で本大会に出場出来ることを想定していた。しかし、蓋を開けてみると肝心の部員達に覇気が感じられなかった。引き締まった空気は感じられず、遊ぶために夜中にアルバイトをしているような部員さえいた。中でも部員一人一人と面談した時に「本気で箱根駅伝を目指そうとするなら、神奈川大学なんか選んでいません」と答えた部員もおり、強い日体大というなかに身を置いてきた大後にとってはカルチャーショックだった。 しかし大後はじっくり部の改革に乗り出す。練習環境の改善の為にアパート1棟を買い取って部員寮にすることで、選手の食生活の安定を図った。また大学から離れた専用グランドに向かう為に大型バスを購入し、自らも忙しい合間を縫って大型自動車免許を取る努力も惜しまなかった。 走力面でも最初は「(当時高校最強だった)西脇工業よりも弱い」と言われるほど、力がなく日体大時代のようなスピード練習は難しいと判断。とにかく長い距離をジョギングする練習を重ねることで、箱根駅伝を見据えた20キロへの適応力を高めていった。当初は、自由な環境に置かれていた上級生からの反発が大きかったが、大後と同期に入学してきた部員らがこれらの環境・練習に適応し、徐々にチームの雰囲気を変えていった。こうして、チームの力が高まり、予選会の順位も通過ラインに近い位置まで上がってきた。これで部員たちの間に「(どうせ出られもしない箱根駅伝に)出られるかもしれない」という空気が広がっていった。またこの頃からライバル校の中から「神奈川大学は5000mだと弱いのに、20キロだとなぜかあんなに強く走る」という評価が広まっていった。
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