神沢杜口
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/13 02:29 UTC 版)
神沢 杜口(かんざわ とこう、1710年(宝永7年) - 1795年3月11日(寛政7年2月11日))は、江戸時代中期の随筆家、歴史家、俳人。通称は与兵衛、諱は貞幹。別号に可々斎[注釈 1]、其蜩庵[注釈 2]、静坐百六十翁[注釈 3]など。京都町奉行所の与力を務めた後、晩年『翁草』200巻を書き上げた。
注釈
- ^ 「可は其の可に任せ、不可は其の不可に任す」の意。[要出典]
- ^ 「その日暮らし」の意。[要出典]
- ^ 蘇軾「事無くして此に静坐すれば、一日是れ両日。若し七十年を活くれば、便ち是れ百四十。」に依る。貝原益軒『養生訓』にもこれを引用する箇所がある。[要出典]
- ^ 京都西町奉行所与力入江家と考えられる。享保5年(1720年)10歳の時、近所の京都東町奉行所与力神沢家に養子入りした。このことは、2019年、関西大学(院聴講生)奥野照夫氏が、上記入江家子孫宅にて翁草の杜口自筆原本を再発見(一時行方不明になっていた)したことにより確実となった。京都新聞 昭和63年3月26日夕刊記事「宗政龍大教授 著者自筆の原本と確認 枚方の子孫保存」。日本近世文学会2020年度秋季大会発表「奥野照夫:『翁草』自筆原本の書誌学的考察」を参照。
- ^ 『翁草』巻百六十七、巻百九十など
- ^ 『参考義士篇』より「寺坂吉右衛門信行」
- ^ 「赤城義士篇参考」「四十六臣傳」など異題もあり(筑波大学附属図書館)
出典
- ^ 『翁草』巻百六十六九十
神沢杜口
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:18 UTC 版)
「義経=ジンギスカン説」の記事における「神沢杜口」の解説
神沢杜口は『翁草(おきなぐさ)』巻28「諸録抜萃」を引くとともに、巻177「国学忘貝抜萃」でも『国学忘貝』からの抜粋を行っている。そして巻186「清朝天子源義経裔の説再考」では、そもそも清朝は北の蛮族であるからそれを恥じても「天子自ら図書輯勘(しゅうかん)に序して日本の裔と称せらるゝ事、我朝の美名、万世に伝えて、吾が國の光明たり」と記し、先の「国学忘貝抜萃」では、「(義経が)西土を掌握し有し事、実に快然たる哉」という感想を認めている。 史学博士の原田信男は、「金史別本」「国学忘貝」を捏造してまでも義経を大陸での英雄に仕立て上げたかったのかと驚嘆し、まさに近世後期の多くの知識人たちは、義経伝説を「美しい歴史」へと転換させようとしていると述べている。
※この「神沢杜口」の解説は、「義経=ジンギスカン説」の解説の一部です。
「神沢杜口」を含む「義経=ジンギスカン説」の記事については、「義経=ジンギスカン説」の概要を参照ください。
- 神沢杜口のページへのリンク