破壊までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 15:40 UTC 版)
「アレキサンダー仏陀脇侍像」の記事における「破壊までの経緯」の解説
1978年12月24日にアフガニスタン紛争が始まると、徐々に発掘調査は不可能となり翌1979年10年にはハッダ遺跡群まで戦果が及び始めて破壊されはじめ、その後起きた内戦で破壊が進行した。海外の研究者は遺跡保護どころか入国すら難しくなり、同像を発見したゼマリヤライ・タルジは国立のアフガニスタン考古学研究所所長の椅子を捨ててフランスに亡命せざるを得ない状態となった。アフガニスタン考古学研究所も破壊され、国立博物館も砲弾に晒された。アイ・ハヌムの遺跡は同博物館副館長および職員たちによって砲弾飛び交う中でアフガニスタン情報局の地下室に隠されており、NHK取材陣が訪問した際にその一部を撮影する事に成功しているが、タパ・シュトル寺院およびこの像の保護まで手が回らなかった。そして1991年タリバンによる破壊と1992年タリバンによる破壊と放火により完全に破壊されたと見られる。1993年には研究者によって破壊状況調査が一度行われたが、その後さらに破壊が行われた。 戦争勃発で遺跡が破壊される前の時点で1万5000体もの仏像等が発掘されており、戦争終結後に土中の未発掘だったために破壊を免れて、その後現在までに発掘された仏像等の遺跡は2万3000体に上る。現存していれば、タパ・シュトル寺院、同じハッダ内近隣遺跡のテペ・イ・カラン、テペ・イ・カファリファなどと共に世界遺産に登録されていた可能性は高い。 ウィキペディア・コモンズにアレキサンダー仏陀脇侍像の写真を提供したアダム・ミツキェヴィチ大学のマレク・グワンスキー(MarekGawęcki)教師は、同写真提供2枚の内1枚に、この像の破壊は愚かな行為だという趣旨のコメントを付けて投稿している。
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