畠山義就との対決
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享徳3年(1454年)、畠山氏でお家騒動が発生、光宣は畠山持国の甥弥三郎を支援した。しかし康正元年(1455年)3月26日に持国が死去すると、7月には弥三郎が敗北、持国の子義就に付いた越智家栄らに敗れ、光宣らは逐電した。長禄元年(1457年)10月には筒井氏・箸尾氏らの所領は幕府により没収されたが管領細川勝元の執成しで長禄3年(1459年)6月、光宣・順永・箸尾宗信らは赦免されて大和に復帰した。一方、弥三郎が急死すると、光宣は弥三郎の弟政長を擁立、翌年に政長方として上洛、8代将軍・足利義政によって家督を取り上げられた義就追討を幕府に命じられ、10月に大和で義就方を撃破、河内嶽山城に逃げ込んだ義就と戦っている(嶽山城の戦い)。 2年半後の寛正4年(1463年)4月15日、光宣の計略によってようやく嶽山城は落城し、義就は高野山ついで吉野に逃れた。翌年の11月13日には政長が勝元に代わって管領に就任した。 ところが、文正元年(1466年)9月に義就上洛の動きが見られ、政長派の大和国人が迎撃するも敗れ、義就は山名宗全・斯波義廉の支援を背景に兵を率いて上洛した。光宣は9月27日に上洛、勝元・政長と大和について相談したが、11月28日に十市遠清の仲介で越智家栄と和睦、12月6日に大和に戻った。しかし翌応仁元年(1467年)正月には義就は義政から赦免され、政長を追って畠山氏の家督に復帰した。光宣は5日に勝元との談合の為に急遽上洛するも、政長は管領を罷免され、代わって斯波義廉が任命された。
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