畠山義就との対決とは? わかりやすく解説

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畠山義就との対決

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/21 23:02 UTC 版)

成身院光宣」の記事における「畠山義就との対決」の解説

享徳3年1454年)、畠山氏お家騒動発生光宣畠山持国の甥弥三郎支援した。しかし康正元年1455年3月26日持国死去すると、7月には弥三郎敗北持国の子義就に付いた越智家栄らに敗れ光宣らは逐電した長禄元年1457年10月には筒井氏箸尾氏らの所領幕府により没収されたが管領細川勝元執成し長禄3年1459年6月光宣・順永・箸尾宗信らは赦免され大和復帰した一方弥三郎急死すると、光宣弥三郎の弟政長を擁立翌年に政長方として上洛8代将軍足利義政によって家督取り上げられた義就追討幕府命じられ10月大和で義就方を撃破河内嶽山城逃げ込んだ義就と戦っている(嶽山城の戦い)。 2年半後の寛正4年1463年4月15日光宣計略によってようやく嶽山城落城し、義就は高野山ついで吉野逃れた翌年11月13日には政長が勝元に代わって管領就任した。 ところが、文正元年1466年9月に義就上洛動き見られ、政長派の大和国人が迎撃する敗れ、義就は山名宗全斯波義廉支援背景に兵を率いて上洛した。光宣9月27日上洛勝元・政長と大和について相談したが、11月28日十市遠清仲介越智家栄和睦12月6日大和戻った。しかし翌応仁元年1467年正月には義就は義政から赦免され、政長を追って畠山氏家督復帰した光宣5日勝元との談合為に急遽上洛するも、政長は管領罷免され、代わって斯波義廉任命された。

※この「畠山義就との対決」の解説は、「成身院光宣」の解説の一部です。
「畠山義就との対決」を含む「成身院光宣」の記事については、「成身院光宣」の概要を参照ください。

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