田中派・竹下派
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県議会議長就任後、茨城県を訪れた田中角栄から直接国政進出を打診され、1969年12月、自由民主党公認で第32回衆議院議員総選挙に出馬し初当選(当選同期に綿貫民輔・林義郎・塩崎潤・森喜朗・村田敬次郎・松永光・江藤隆美・中山正暉・浜田幸一など)。自民党では佐藤栄作派→田中角栄派に属した。 ロッキード事件で逮捕された田中が出所したときは、「やくざだって親分が出所するときは迎えに行く」と真っ先に迎えに行き、それが祟って落選した経験を持つほど田中に心酔していた。しかし、1985年、田中に反旗を翻す形で竹下登を総裁候補に担ぐ「創政会」旗揚げに参加し、金丸信の命を受け小沢一郎と共に田中派内の多数派工作を担当、竹下派の結成に尽力する。当選同期の奥田敬和、小沢、羽田孜、渡部恒三、2期上の小渕恵三、橋本龍太郎らとともに「竹下派七奉行」と呼ばれ、竹下内閣誕生に大きく貢献した。1987年11月、竹下内閣の自治大臣兼国家公安委員長として初入閣。その後も通産大臣、法務大臣、官房長官などを歴任した。
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