生田萬とは? わかりやすく解説

いくた‐よろず〔‐よろづ〕【生田万】

読み方:いくたよろず

[1801〜1837]江戸後期国学者上野(こうずけ)館林の人。平田篤胤(ひらたあつたね)の門下で、越後柏崎桜園塾を開いた天保の飢饉(ききん)の際、救民のために柏崎陣屋襲ったが、負傷して自刃


生田萬

読み方いくた よろず

江戸後期国学者館林藩士。姓は菅原通称は瞭・雄・小膳・多門、字は救卿、名は道満、号を東華・華山・大中道人等。平田篤胤那波務義に学ぶ。天保8年(1837)歿、62才。

生田万

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/04 02:05 UTC 版)

生田 万(いくた よろず、享和元年(1801年) - 天保8年6月1日1837年7月3日))は、江戸時代後期の国学者[1]。諱は道満(みちまろ)、のちに国秀[2]、字は救卿、号に東華、大中道人。


注釈

  1. ^ 万が、越後に移ったのは、同門の友人樋口英哲に招かれてのことといわれる。

出典

  1. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 81頁。
  2. ^ 館林市史編さん委員会『館林市史 通史編2 近世館林の歴史』館林市、2016年、72頁。 
  3. ^ a b c d e f g h i j k 中村(1979)pp.256-257
  4. ^ 賀川(1992)p.270
  5. ^ a b c d 宮地(2012)pp.33-35
  6. ^ 歴博・ほっとひと息・展示の裏話紹介
  7. ^ 生田万の妻『日本婦徳の鑑 : 昭和大典記念』東京婦人新聞社、1931年


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