現役後期と戦争とは? わかりやすく解説

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現役後期と戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 01:43 UTC 版)

織田幹雄」の記事における「現役後期と戦争」の解説

1931年昭和6年)、大学卒業し朝日新聞社入社し大阪朝日新聞社運動部所属した同年第1回一般学生陸上競技大会神宮)にて、当時三段跳世界記録(15m58)を樹立した。なお、織田はいくつ日本記録更新しているが、世界記録更新したのはこの記録のみで、この記録も後に南部更新することになる。また同大会では南部走幅跳世界記録更新している。 1932年昭和7年3月台湾での指導中に足を負傷してしまい、これが織田選手寿命縮め結果となった。 同1932年ロサンゼルスオリンピック開幕織田五輪日本選手団旗手務め陸上競技日本代表コーチ主将選手として出場したものの、選手として出場した三段跳では記録が振るわなかった。ただ三段跳では南部が15m72の世界新記録樹立し金メダルを、大島鎌吉銅メダル獲得している。 五輪終わった1932年11月山本忠興媒酌人として結婚した以降怪我もあり陸上第一線から退き1934年昭和9年第34回日本陸上競技選手権大会での走高跳1m85を飛んで2位入ったことが記録として最後のものとなったその後織田陸上競技指導者として活躍した当時指導者はおらず陸上コーチ織田中心になって始めた現役時代戦前から、一線退いた戦後にかけて主に朝日新聞毎日新聞主催で、南部らと県庁所在地行かない所はないというくらい陸上指導全国巡回したこの間戦争へ向かって進む中でスポーツ界暗い影を落とす。その一つが、1938年昭和13年東京五輪開催権返上であった織田は、コーチとして指導する中でアメリカ五輪跳躍競技勝てると確信していたが、準備委員会機能しておらず東京競技場建設止まり国中開催する雰囲気ではなかった、と回想している。更に太平洋戦争では選手たち死亡している。 終戦4ヶ月後にあたる1945年昭和20年12月9日織田提案東京大学競技場にて競技会開かれ陸上競技愛好家全国から集い織田走高跳出場した同日平沼亮三会長として日本陸上競技連盟(JAAF)新組発足織田JAAF強化担当ヘッドコーチ就任する。つまりこの日が日本陸上復活の日となった

※この「現役後期と戦争」の解説は、「織田幹雄」の解説の一部です。
「現役後期と戦争」を含む「織田幹雄」の記事については、「織田幹雄」の概要を参照ください。

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