現役後期と戦争
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1931年(昭和6年)、大学を卒業し朝日新聞社に入社し大阪朝日新聞社運動部に所属した。同年第1回一般対学生陸上競技大会(神宮)にて、当時の三段跳の世界記録(15m58)を樹立した。なお、織田はいくつも日本記録を更新しているが、世界記録を更新したのはこの記録のみで、この記録も後に南部が更新することになる。また同大会では南部も走幅跳で世界記録を更新している。 1932年(昭和7年)3月、台湾での指導中に足を負傷してしまい、これが織田の選手寿命を縮める結果となった。 同1932年、ロサンゼルスオリンピックが開幕、織田は五輪日本選手団の旗手を務め、陸上競技日本代表のコーチ・主将・選手として出場したものの、選手として出場した三段跳では記録が振るわなかった。ただ三段跳では南部が15m72の世界新記録を樹立し金メダルを、大島鎌吉が銅メダルを獲得している。 五輪が終わった同1932年11月、山本忠興を媒酌人として結婚した。以降、怪我もあり陸上の第一線から退き、1934年(昭和9年)第34回日本陸上競技選手権大会での走高跳1m85を飛んで2位に入ったことが記録として最後のものとなった。 その後も織田は陸上競技指導者として活躍した。当時は指導者はおらず、陸上コーチは織田が中心になって始めた。現役時代の戦前から、一線を退いた戦後にかけて主に朝日新聞・毎日新聞主催で、南部らと県庁所在地で行かない所はないというくらい陸上の指導に全国を巡回した。この間、戦争へ向かって進む中でスポーツ界に暗い影を落とす。その一つが、1938年(昭和13年)東京五輪開催権返上であった。織田は、コーチとして指導する中でアメリカに五輪の跳躍競技で勝てると確信していたが、準備委員会は機能しておらず東京の競技場の建設も止まり、国中が開催する雰囲気ではなかった、と回想している。更に太平洋戦争では選手たちが死亡している。 終戦4ヶ月後にあたる1945年(昭和20年)12月9日、織田の提案で東京大学競技場にて競技会が開かれ陸上競技愛好家が全国から集い織田も走高跳に出場した。同日、平沼亮三を会長として日本陸上競技連盟(JAAF)新組織発足、織田はJAAF強化担当ヘッドコーチに就任する。つまりこの日が日本陸上界復活の日となった。
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