現在(昭和48年(1973年)の焼失後)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 10:10 UTC 版)
「京の大仏」の記事における「現在(昭和48年(1973年)の焼失後)」の解説
大仏がかつてそこにあったことの名残として今日、方広寺鐘銘事件のもとになった「国家安康」の鐘が吊られた鐘楼や、諸将の銘が刻まれた石塁を見ることができる。 本堂には前述の3代目大仏の1/10の大きさで造られたと伝わる盧舎那仏坐像が安置されているほか、焼失を免れた方広寺遺物として、京都市指定有形文化財の「方広寺大仏殿遺物9点」も保存されている。上記遺物は大仏殿関連が銅製風鐸・銅製舌各1点、鉄製金輪4点で、大仏関連が銅製蓮肉片・銅製蓮弁・鉄製光背金具各1点からなる。風鐸と舌には銘文が刻まれており、「国家安康」の鐘を製作した三条釜座の鋳物師名越三昌らによって、慶長17年(1612年)に製作されたことが分かる。他の7点についても、風鐸や舌と前後する時期の製作と考えられている。上記遺物の一部は鐘楼に置かれており、それについては通年見ることが可能である。柱の金輪については京都国立博物館の庭園にも展示されている。 大仏殿の台座があったと考えられる場所は、大仏殿跡緑地として整備されている。 大和大路七条にある「大仏前交番」 や「京都大仏前郵便局」 など、周辺のいくつかの施設名に「大仏」の名を留めている。また瓦の産地としても知られ「大仏瓦」の名が今に残る。かつては門前で名物「大仏餅」も売られていた。東西の通りである正面通は、この大仏殿の「正面」につながる通りであることに由来している。 現在の豊国神社正面鳥居。かつてはここに寛政10年(1798年)に落雷で焼失するまでは方広寺仁王門があった。 鐘楼に保存されている2代目大仏殿の遺物。寄木柱を束ねていた「金輪」と、軒先に吊るされていた「風鐸」。
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