王政から共和政へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 06:14 UTC 版)
伝承によると、ローマ人はトロイア戦争におけるトロイア側の武将で、トロイア滅亡後にイタリア半島に逃れてきたアイネイアースらの子孫とされ、紀元前753年に同じくそのの子孫であるロームルスとレムスの兄弟によって建設された。古代ローマでは、アイネイアースが、トロイア滅亡後、詩、音楽、医学、貿易、政治システムを持って、イタリア半島に逃れて、古代ローマを建国したという物語は、古代ローマが古代ギリシアの歴史とつながる長い連続と価値づけられ、非常に重要と考えられていた。ロームルスが初代ローマ王となって以降、7代の王が王政によって統治されていたが(王政ローマ)、紀元前509年、タルクィニウス・スペルブスが追放され王政は終焉、共和政ローマが成立した。 当時の共和政には二つの統治組織があった。一つは「パトリキ」と呼ばれる貴族の有力者や政治家たちによって構成される元老院で、もう一つは「プレブス」と呼ばれる平民階級で富裕な市民が中心となって運営される市民集会(民会)であった。貴族と平民の間の対立や紛争は共和政の重要な政治的問題となっていたが、元老院はいくつか譲歩をしながら、常にうまく乗り切っていた。
※この「王政から共和政へ」の解説は、「イタリアの歴史」の解説の一部です。
「王政から共和政へ」を含む「イタリアの歴史」の記事については、「イタリアの歴史」の概要を参照ください。
- 王政から共和政へのページへのリンク