特徴・史料評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/15 03:59 UTC 版)
以前に見た『武州伝来記』の記憶をもとに記述されているので、記憶違いと忘却部の創作や脚色が目立つことと、肥後国で編纂された『二天記』の記事等からの導入も見られることが特徴である。即ち、史料としての評価は極めて低いということがいえる。「巌流島の決闘」記事はベースは『武州伝来記』ながら、武蔵19歳のこととされていたものを、慶長17年29歳の時として『二天記』と同調している。この頃すでに上方や江戸でもこの題材で歌舞伎や浄瑠璃が盛んに演じられ、大人気となっていた。櫓を削って二尺五寸にしたことや二刀に変わったのは『武将感状記』などの影響が見られる。しかし、注目すべきは決闘の相手の名前を『二天記』の「佐々木小次郎」に同調せず、丹治峯均『武州伝来記』の伝えた「津田小次郎」として、次のように記していることである。 先師、津田小次郎と試闘の事、世間に名高し巌流を使ふ故、巌流と呼びなして小次郎と云ふを知らず、色々の説を立て、小児も語りあひ、又は草紙に著はしたるもあれど、皆偽説のみにて正しきことなし。右は先師以来の語り伝へ、予が老先生巌翁の伝記に著はせし処、吾徒信じて疑うことなかれ。 ここで注目すべきは、決闘相手の名前について、当時世間の一般認識を伝えている事である。信英は、武蔵の巌流島の決闘については子供でも語り合うほどに有名であるが、武蔵の相手の名前については、ただ「巌流」と呼ぶばかりでその名が「小次郎」である事も知らないと嘆いている。これによって、江戸中期の天明2年(1782年)に至ってもまだ、相変わらず武蔵の相手は氏名不詳であり、130年ほど前の「小倉碑文」から全く変化していないことがわかる。
※この「特徴・史料評価」の解説は、「兵法先師伝記」の解説の一部です。
「特徴・史料評価」を含む「兵法先師伝記」の記事については、「兵法先師伝記」の概要を参照ください。
- 特徴・史料評価のページへのリンク