漢代・魏晋南北朝時代とは? わかりやすく解説

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漢代・魏晋南北朝時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 08:32 UTC 版)

徐州」の記事における「漢代・魏晋南北朝時代」の解説

紀元前106年元封5年)、漢の武帝全国13州分割し各州刺史置いた際、現在の山東省南東部江蘇省長江以北相当する地域徐州刺史部を置いた後漢入って郯県現在の山東省郯城県)を州治とした。三国時代、魏は州治を彭城現在の江蘇省徐州市)に移転した永嘉の乱により西晋滅ぶと、江南中心に東晋成立した東晋淮河以北の地を喪失したため徐州も北半分失われ、州治は南へ移転した411年義熙7年)には州治は京口現在の江蘇省鎮江市)にまで南下した南朝宋421年永初2年)に徐州南徐州改称され北徐州徐州改称された。 一方東晋とは淮河挟んで対立した五胡十六国、および南朝対立した北朝諸国でも徐州置かれた。4世紀末から5世紀初頭にかけては十六国の各政権それぞれに徐州置いた後燕徐州の州治を黄巾固(現在の山東省済南市章丘区)に置いたが、後に黎陽現在の河南省浚県の東)、鄄城現在の山東省鄄城県の北)に移転させ、その後廃止した南燕徐州の州治を莒城(現在の山東省莒県)に置いたが、管轄する範囲現在の山東省臨朐県にそびえる沂山の東南から黄海沿岸浜海一帯であった後秦徐州の州治を項県(現在の河南省沈丘県の南)に置いた管轄する範囲現在の河南省商丘市太康県商水県以東地区と、安徽省亳州市渦陽県蒙城県周辺であったその後廃止された。 北魏は、433年延和2年)に徐州の州治を済陽県現在の河南省蘭考県東北)に置いたが、皇興年間初頭廃止した

※この「漢代・魏晋南北朝時代」の解説は、「徐州」の解説の一部です。
「漢代・魏晋南北朝時代」を含む「徐州」の記事については、「徐州」の概要を参照ください。

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