温泉街への転換
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 09:06 UTC 版)
1953年(昭和28年)4月には石原昇平が組合員15軒の衣浦荘組合の組合長に就任した。1954年(昭和29年)頃に売春防止法制定の機運が高まると、制定の動きを察知した衣浦荘組合は温泉街への転業を図った。1955年(昭和30年)8月4日には衣浦荘組合を改組して株式会社新明石を設立し、石原が株式会社新明石の社長に就任、同年10月4日から鑿泉(さくせん)を開始した。1956年(昭和31年)7月27日には愛知県衛生研究所から泉質の成績書の交付を受け、温泉法による単純温泉(緩和性低張微温泉)として認可された。湧出量は毎分51リットル、水温は摂氏25.5度だった。衣浦温泉街が実現したのは売春法制定以前のことだった。 衣浦温泉街の発足以前である1954年(昭和29年)10月には料理旅館の吉文(吉ふみ、よしふみ)が開業した。1956年(昭和31年)7月には株式会社新明石が衣浦温泉株式会社に商号変更し、衣浦温泉街の認可と同日の1956年(昭和31年)7月27日には、衣浦温泉株式会社が直営する温泉旅館の湯元本館が開業した。湯元本館から組合員全戸に配湯され、湯元本館には大衆浴場も設けられた。 衣浦温泉旅館組合が結成され、最盛期の1957年(昭和32年)には10軒の旅館が存在していた。1956年(昭和31年)5月24日には売春防止法が制定され、1957年(昭和32年)4月1日に施行されている。春から秋には釣り、夏には海水浴、冬には海苔採りなどでにぎわい、西尾市と衣浦温泉の間には定期バスも運行された。1958年(昭和33年)には映画館の浜劇も開館した。浜劇は平屋建てで270席の映画館だったが、1962年(昭和37年)に閉館している。 1959年(昭和34年)の伊勢湾台風後、海岸部には護岸防波堤が築かれ、また新川港に沿って一部が埋め立てられた。また、1963年(昭和38年)以降にはさらに広範囲に埋め立てられて臨海工業地帯が造成されたことで、衣浦温泉は景勝地・保養地としての性格を失った。現在の湯元本館跡地ではラブホテル(CAESAR)が営業している。
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