淮軍独自の制度
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/23 09:25 UTC 版)
淮軍と湘軍の最大の相違点は、淮軍が積極的に西洋の新式兵器を導入した事である。同治2年、各部隊指揮官とは別に西洋人を軍事教官として招いて西洋式軍事教練を行わせた。またそれまでの火縄銃隊を西洋式小銃隊に改め、旧式の劈山砲を開花砲に改めた。更に光緒3年(1877年)にはドイツの軍制を参考にクルップ砲隊を設置、洋務運動の過程で創設された江南機器製造総局・天津武備学堂で武器製造と人材育成を図った。また拠点を直隷省に移してからは、北洋水師内に近代的な北洋艦隊を編成した。 「軍服 (中華民国)#洋装導入以前」も参照 このように淮軍は近代化を進めていったが、その編成は湘軍の制度を継承していたため限界はあった。平時の兵の訓練は西洋人軍官を招いて洋式で行ったが、統領・営官・哨官らの士官は西洋の用兵を学んでいなかったため、戦時には必ずしも訓練の成果を発揮できていなかった。天津武備学堂は別として士官全体に対する養成機関・教育体系はなく、指揮体系は各級指揮官の間や李鴻章との間の個人的な関係性に依存していた。そのため、淮軍編制から年数を経過して指揮官の世代交代(これも計画的・体系的なものではなく指揮官の身内・親族間等で継承されることが多かった)が進むと、関係性が希薄になっていき、末期には各級指揮官・部隊間の連携が取れず各部隊が個々に戦うしかない状況に至ってしまった。
※この「淮軍独自の制度」の解説は、「淮軍」の解説の一部です。
「淮軍独自の制度」を含む「淮軍」の記事については、「淮軍」の概要を参照ください。
- 淮軍独自の制度のページへのリンク