波乱の日々
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店もようやく軌道に乗り始め、生活も安定してきた矢先、1935年(昭和10年)、開店以来ずっと働き詰めだった夫が、肺浸潤で倒れてしまった。命は取り留めたものの、2か月は床から離れられない生活が続いた。 同1935年、長女が病気を患い、医師の手当の失敗により失明した上に、急性の大腸カタルにより2歳で早世した。カツは、多忙のあまり子育てや看病まで手が回らなかったことを悔いて、悲嘆に暮れた。 当時カツは、他の息子たちに対しても、性格や学業の伸び悩みなどに問題を抱え、子育てに苦悩していた。息子たち全員を大学に進学させたいにも関わらず、学校での成績が悪かったため、悲嘆のあまり、子供たちと共に心中しようと考えたことすらあった。 そんな折に新宗教団体「生長の家」の創始者である谷口雅春の著書『優良児を作る』を読んで、「子供をほめて優良に育てる」という教育方針に強い感銘を受けた。1944年(昭和19年)、カツは生長の家に入信し、熱心な信者となった。以後カツは信仰と子育てを通して自分を見つめ直し、夫との仲も復縁させていった。
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波乱の日々
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 03:34 UTC 版)
2歳のとき、産後の肥立ちの悪かった母が死に瀕したため、里子に出された。預かり先での生活は、後に中川の長女が「NHKドラマ『おしん』の幼少時代が天国に思えるほど」と語るほど極貧であったが、実母に代って養母に愛情を注がれて育ち、養母の尽力で荒谷尋常小学校(後の山形県天童市荒谷小学校)に通うこともできた。学業は優秀であったが、4年修了後に生家に戻された。すでに実母は死去しており、継母のもとで家業を手伝わされ、進学は許されなかった。11歳のとき、継母との不仲から家を出た。 山形、米沢市、東京市(後の東京都)を渡り歩き、女中奉公、女工、給仕など、様々な職を転々とした。妻子持ちの男性に騙されて暴行され、1918年(大正7年)に17歳にして女児を出産、未婚の母となった。身内を頼ることもできず、自分で娘を育てようにも、幼い子供を抱えた女を雇ってくれる仕事場は何もなかったため、やむを得ず娘を里子に出した。 翌1919年(大正8年)、娘の養育費捻出のため北海道に渡り、網走の遊廓に入った。客を喜ばすために趣向を凝らし、遊女として次第に頭角を現し、一時は遊郭きっての看板遊女となった。 1921年(大正10年)、牧場経営者である中川卓治と結婚して身請された。中川家の親戚たちから結婚に反対されて居場所を失ったため、開拓景気に沸く樺太に渡り、夫婦で牧場、旅館、飯場などで働いた。
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