法人化以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/28 09:39 UTC 版)
「エリコットシティ (メリーランド州)」の記事における「法人化以後」の解説
1867年、エリコッツミルズの市憲章が制定され、市長と市政委員会からなる市政府が結成され、市名は「エリコットシティ」に変更された。郡内では唯一の認証された都市だったが、1935年、禁酒法の下で酒場からの税収入が無くなり、税負担が市民に肩代わりを強制しているとの抗議があり、アメリカ合衆国上院議員のジョセフ・ドノバンからの提案で、市憲章が撤廃された。1973年郡から歴史地区に指定された。今日のエリコットシティはハワード郡の郡庁所在地となっている。 エリコットシティ初代市長はE・A・タルボットであり、石造りの家に住み、川床で木場を運営していた。その事業は1866年と1868年の洪水で洗い流された。タルボットは対抗馬のアイザックスから再選を放棄すれば自家の権利を保てるという提案を受け、その通りにした。タルボットはチャールズ・タイマヌスが設計した丘の上のレンガと花崗岩でできた店に引っ越した。そこは現在エリコットシティ醸造社が入っている。 1868年の大洪水では43人が溺死し、グラニット製造綿糸工場、チャールズ・A・ギャンブリルズ・パタプスコ・ミル、ジョン・リー・キャロルの工場ビル、および数多くの家屋を洗い流した。チャールズ・A・ギャンブリルが工場を再建した。それは1916年の火事で焼失するまで操業を続けていた。 1878年、エモリー・アベニューにハワード郡が最初のエリコットシティ・監獄を建設し、エモリー監獄あるいはウィロウグローブ監獄とも呼ばれた。この石造の監獄は囚人12人を収監することが意図されており、1993年にハワード郡拘束センターが開所するまで使われた。 1879年、政治ギャングが投票所で有色の投票者を銃撃し負傷させることで選挙を支配した。副保安官は命の危険を感じてその指導者を逮捕せず、暴力沙汰が広がった。 エリコットシティは禁酒運動で初期に活動しており、1882年には「純粋に発酵したあるいは酔わせるリキュール」を禁止する法を制定し、1883年5月1日に有効となった。これは直ぐに他の商品を販売しない免許のある店舗には酒を販売できるように変えられた。そういう店は町の税収の主要な源だった。 1892年、市街電車の運行が提案され、1895年4月20日に承認され、1899年には実行に移された。その運行は1955年まで両サイドに運転席のある電車で続けられた。ボルチモア・サービスがバスでの代替を提案したときに運行が停止され、バス便は2年間続いた。ケイトンズビル・アンド・エリコットシティ電車会社の軌道は後にハイキング道に転換された。 1895年2月、商店主ダニエル・F・シェイがジェイコブ・ヘンソンに殺された。ヘンソンは裁判に掛けられ、死刑を宣告された。フランク・ブラウン知事がヘンソンは狂気にあったという根拠で釈放する可能性があったので、市民の集団が監獄に押し入り、ヘンソンをメリックス・レーンで私刑にした。それに付けられた標識は「ブラウンは我々の裁判所を支配できない」と記されていた。ブラウン知事は市民を非難し、それ以降、死刑囚を全てメリーランド州刑務所に移すよう命令した。 1896年、花崗岩の採掘が始まったが、その開始時点は困難さが伴っていた。
※この「法人化以後」の解説は、「エリコットシティ (メリーランド州)」の解説の一部です。
「法人化以後」を含む「エリコットシティ (メリーランド州)」の記事については、「エリコットシティ (メリーランド州)」の概要を参照ください。
- 法人化以後のページへのリンク