汲冢書との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 02:30 UTC 版)
281年、戦国時代の墓から古代文字の竹簡が出土し、束晳らによって整理された。これを汲冢書と呼ぶ。汲冢書の発見について、杜預は以下のように述べている。 太康元年の三月、呉の侵攻が初めて平定された。…そこでかねてからの考えを発揮して『春秋釈例』と『春秋経伝集解』を書きあげた。その仕事が終わった頃、たまたま汲郡汲県で旧墓を発掘した者がおり、古書が大量に見つかった。すべて竹簡を編綴して科斗文字で記されていた。…最初は秘府に蔵され、私は晩年にそれを目にする機会に恵まれた。 — 杜預、『春秋経伝集解』後序 杜預は、汲冢書のうち『竹書紀年』などを調査し、『春秋』経文と突き合わせて、以下の結論を導いた。 一国の歴史書は諸国からの報告に基づいて事実をありのままに記載したものであり、孔子がこれに修改する際に義によって異文を制作した。 『竹書紀年』の内容は『春秋左氏伝』と符合する場合が多く、これは『左伝』が『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』より優れたものであることを示している。 ただ、杜預が汲冢書を見たときにはすでに『春秋経伝集解』と『春秋釈例』は完成しており、その具体的な内容を取り込めたわけではない。
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