江(崇源院)との婚姻について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 05:00 UTC 版)
「佐治一成」の記事における「江(崇源院)との婚姻について」の解説
江(崇源院)の母のお市の方は、本能寺の変における信長横死後の天正10年(1582年)に織田家臣・柴田勝家に嫁ぎ、江ら浅井三姉妹も越前国北之庄に移る。翌天正11年4月24日(1583年6月14日)に勝家と市は北の庄において羽柴秀吉に敗北し自害しており、三姉妹は秀吉の元へ引き取られている。 天正12年(1584年)に一成が大野を追放され、江と離縁したとされる経緯から、一成と江の婚姻時期は天正12年初めで、佐治氏や信長の次男で一成の従兄にあたる織田信雄の懐柔を目的とした秀吉の意向であったものと想定されている。宮本義己は上記の小和田説に疑問を呈したうえで、婚姻を決めたのは秀吉ではなく、織田信雄であるとし、婚姻時期は天正12年(1584年)春としている。 一方で、一成と江の婚姻を記した記録や佐治氏系図においては、時期や事情を記したものは見られず、近世後期の鳥取藩主池田家の由来書には婚姻時期を信方戦死後の天正2年とする説もあり、犬の再嫁に伴い佐治氏との婚姻を必要としていた信長の意向であった可能性も考えられている。なお、『徳川幕府家譜』においては浅井三姉妹のうち、茶々を「御台所」、初を「室」と記するのに対し、江については「妻」と格下表現を用いており、一成と江の婚姻の意義や婚約のみであった可能性など、実態については議論が存在する。
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