水戸郷士(水戸藩)
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徳川御三家のひとつ、水戸藩においても多くの郷士が登用された。平安時代末期以降、関ヶ原の戦いまで常陸国の大名であった佐竹氏が約500年近く支配した領国においては、撫民的な意味合いや藩政の円滑な施行において土着の土豪の力は無視できず、徳川頼房、徳川光圀の代には、早くも旧佐竹氏の一門 大内氏、西丸氏、長山氏や、佐竹家臣であった大森氏、蓮見氏、野口氏、益子氏などの郷士が登用された。当初は佐竹氏の一門旧臣など、家柄に由緒のある旧族郷士が多かったが、江戸時代中期以降、財政厳しい水戸藩の状況を改めるため、献金により郷士に登用する、いわゆる献金郷士といわれる層が台頭した。菊池氏、緑川氏などがその例である。このように、藩の武力ないし財政力を支える目的で、様々な郷士登用の形、あるいは郷士身分の運用方法が生まれた。それら水戸藩郷士は、戦闘員たる郷士として特置郷士、救済郷士、非戦闘員たる郷士として旧族郷士、登用郷士に分けられ、藩の地方行政を支えるための身分層として用いられた。 しかし、水戸藩の郷士は役職の上下を別にして藩士と同列であり、その身分は極めて重く、藩の財政のために身分を切り売りするような政治手法は水戸藩にとって潔しとするものではなく、献金郷士は廃止の方向に進んだ。一方で、水戸藩郷士はそれまでの郷士を本郷士とし、登用に際しては極めて厳格な措置をとる一方、郷士格、郷士列、郷士並といった新たな階級が定められ、郷士格は10石、郷士列は7石または無給、郷士並は7石、5石、または無給とされた。なお、郷士としての身分は格式代官列に並ぶことが最も栄誉とされ、御徒列、小十人列など郷士の中でも様々な身分が定められたという。 幕末に入り、黒船来航など西欧列強の外圧が強まると、藩内に尊王攘夷の機運が高まり、尊王や藩のために奔走する義民が多く現れ、彼らを賞するために郷士または郷士並に登用される例が見られた。
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