毛利高政の佐伯入封までの経緯
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「佐伯藩」の記事における「毛利高政の佐伯入封までの経緯」の解説
その後、豊後国は豊臣家の配下の大名や代官がそれぞれ分散配置されたが、これは秀吉が外敵の侵略や島津など強力な外様大名の多い九州に子飼いの家臣を封じて置くためであったといわれる。文禄3年(1594年)毛利高政が、蔵入地の代官として治めていた豊後国玖珠郡角牟礼城以下および宮城豊盛が治めていた同国日田郡日隈城以下の2万石(一説には6万石)を与えられて入封する。高政は秀吉が織田信長に仕えていた頃からの譜代の家臣であり、秀吉の中国征伐や九州征伐、そして文禄の役に参戦して功績を挙げている武将である。一説には秀吉の落胤とする説もある。高政は朝鮮における活躍から慶長元年(1596年)、秀吉より日田郡2万石の所領の他、日田郡と玖珠郡にある豊臣家の蔵入地8万石と佐伯2万石の代官にも任じられた。慶長2年(1597年)からの慶長の役では秀吉の命令で軍監を勤めた。 ちなみに高政は毛利姓を名乗っているが、長州藩の大江姓毛利氏との血縁関係はない。高政は本能寺の変が起こったときは秀吉に従って備中高松城にあったが、秀吉の中国大返しのとき、秀吉の命で兄・重政とともに毛利家の人質となった。高政の元来の姓は鯰江氏流の森であるが、毛利輝元から大いに気に入られたため、兄弟ともに毛利姓を与えられ、以後は毛利と称したものである。
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