毛利隆元急死
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永禄5年(1562年)、元就と隆元が尼子氏攻めのために出雲国へ出陣した隙を突いた大友氏の戸次鑑連(立花道雪)による豊前松山城攻撃に対応するため、隆元が粟屋元真、兼重元宣、赤川元保ら3000の将兵を率いて出雲国赤穴から防府へ引き返した。しかし、永禄6年(1563年)に将軍足利義輝の調停により毛利氏と大友氏の講和が成立したため、隆元は再び出雲へ出陣すべく将兵を招集し、同年8月5日を出陣の日と決めた。出陣の直前に誠春が隆元を饗応に招くと、誠春と隆元が福原氏を介して縁戚関係にあったこともあり、隆元はこの招待を快諾。8月3日晩に安芸国高田郡佐々部の誠春の宿所において、立派な酒食で隆元を歓待した。しかし、隆元は誠春の宿所からの帰途で激しい腹痛を起こし、翌朝に急死してしまった。元就は状況から隆元の死を自然死ではないと判断し、隆元に随行していた赤川元保が誠春と組んで尼子氏と通じ、隆元を毒殺したものと疑った。
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