死屍(しし)に鞭(むち)打(う)つ
死屍に鞭打つ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 19:49 UTC 版)
呉で伍子胥は公子光に仕え、呉王僚や公子光に楚を攻めるよう進言し、呉王僚はその気になったが、公子光はまだ早いと抑えた。これに伍子胥は公子光に野心ありと見抜き、専諸を推挙する。自らは呉が内紛で荒れると見て、農夫となって暮らし時節を待った。 紀元前515年、呉の主力軍が出征した楚で立ち往生するに至ると、呉王僚の王位継承を不当だと思っていた公子光は、国内が手薄な今がクーデターを起こす絶好の機会と考えた。そして、呉王僚を宴席へと招き、専諸を差し向けてこれを暗殺した。公子光は即位して闔閭となって、伍子胥を側近に立てた。こうして、伍子胥は楚の隣国の王の側近という立場を得た。 また、伍子胥は孫武の著した『孫子兵法』を献上し、7回にわたり登用を説いた。孫武は闔閭に招かれ、その才能を認められ将軍として迎えられた。 そして、伍子胥は孫武と共に闔閭の補佐に当たり、呉国内の整備に尽力した。楚へは十分な準備が整うまではと闔閭を抑えていたが、楚の広大さと君主が幼少に変わったばかりなことを突き、小規模な兵を出して国境の集落を襲い、楚が国軍を発して迫ると引くということを繰り返して国力を浪費させた。 紀元前506年、闔閭は「そろそろ楚を攻めようと思うのだが」と伍子胥と孫武に聞いた。伍子胥は「楚の内情は酷く勝てるでしょうが、万一もあります。属国として搾取され、楚への恨みを貯めている唐と蔡を味方に付ければ万全です」と答え、使いを出すと唐と蔡は即座に内諾した。こうして闔閭・伍子胥・孫武は本格的な楚侵攻を始める。柏挙の戦いである。十分な準備に加え、楚の地理と内情を良く知る伍子胥・兵法の天才孫武という人材が揃い、連戦連勝して、遂には楚の都郢を陥落させた。平王は既に死んでいたので伍子胥は王墓を暴き、平王の死体を300回に及び鞭打って恨みを晴らした。これが「死者に鞭打つ(死屍に鞭(むちう)つ)」の語源になった。この事をかつての親友の申包胥にあまりに酷いと責められた時に、伍子胥は「日暮れて道遠し、故に倒行してこれを逆施するのみ」と答えた。「自分はもう年を取っているので、やり方などは気にしておれないのだ」あるいは「時間は無いのにやるべきことは沢山ある。だから焦って非常識な振る舞いをしたのだ」という意味である。こちらは「日暮れて道遠し(ひくれてみちとおし)」の故事となっている。
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