武漢・南昌の戦いとは? わかりやすく解説

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武漢・南昌の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/05 06:15 UTC 版)

ソ連空軍志願隊」の記事における「武漢・南昌の戦い」の解説

日本軍は、1938年6月から始まる武漢攻略作戦先立ち漢口への爆撃企図した。4月29日天長節)、日本海軍航空隊45機(第十二航空隊小園安名少佐率い九六艦戦27機、および第十三航空隊町整少佐率い九六陸攻18機)が奇襲狙い、別々の経路から漢口飛来した。しかし地上監視哨察知され、中ソ戦闘機隊の60機が離陸していたため奇襲にはならなかった。空域彼我100機近い航空機入り乱れて大混戦となった。この結果日本海軍51撃墜、4機喪失発表した(これは天長節のために修正され戦果であるとされる)。一方の中ソ側記録は、撃墜21機(戦闘機13爆撃機8)、被撃墜9機となっている。 武漢会戦中には長江沿いに進撃してくる日本軍地上部隊や、長江上の艦船襲撃した。しかし南京武漢中間にある安慶占領され、駝龍湾飛行場中国語版)が新設されると、日本軍戦闘機の在空時間長くなり、制空権日本側に移っていった。10月以降戦力損耗した中ソ航空隊戦闘避けるようになり、10月25日武漢陥落したまた、2月から8月までの間にソ連飛行士15人が犠牲となっている。 南昌には青雲譜・老営房の新旧2つ飛行場南昌飛機製造廠(イタリア企業との合弁1934年設立)があり、中国空軍の重要基地であった日本軍武漢とともに2月から8月頃まで南昌への攻撃繰り返した5・6月の攻撃では多数機が地上破壊され、中ソ連航空隊武漢南昌から奥地へ引きあげた。南昌は翌1939年3月日本軍によって占領された。

※この「武漢・南昌の戦い」の解説は、「ソ連空軍志願隊」の解説の一部です。
「武漢・南昌の戦い」を含む「ソ連空軍志願隊」の記事については、「ソ連空軍志願隊」の概要を参照ください。

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