さくらい‐じょうじ〔さくらゐヂヤウジ〕【桜井錠二】
櫻井錠二
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櫻井 錠二(さくらい じょうじ、1858年9月24日(安政5年8月18日) - 1939年(昭和14年)1月28日)は、日本の化学者。
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- ^ 芳我石雄コトバンク
櫻井錠二(さくらいじょうじ,1858-1939)
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「「うま味」を発見した男」の記事における「櫻井錠二(さくらいじょうじ,1858-1939)」の解説
安政5年、加賀藩士櫻井甚太郎の六男として生まれる。明治4年、13歳で大学南校に合格し、明治9年に文部省の国費留学生としてロンドン大学に留学。アレクサンダー・ウィリアムソン教授の指導を受け、物理化学の研究を行った。明治14年に帰国し、翌15年に東京大学理学部教授に就任。池田菊苗などの指導に当たった。また、明治16年に東京化学会会長、明治40年には東京帝国大学理科大学長などを務めた。
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