楽山亭時代
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清臣が元服した文政元年(1818年)1月28日、稲川は稲川村を離れて城下大工町(葵区大工町)に転居し、これを薫徳精舎、また幼時に学んだ一麟の塾に因み、楽山亭と号した。また大野万斎等文人仲間で楽山吟社を結び、試作量も増加した。 文政3年(1820年)11月9日長男清臣宅に戻り、半年で程近い今川氏所縁の花圃という地の東に新居を構え、華圃精舎と称した。花園の場所は「清水尻の玉の井の筋向ひ」という。翌年駿府江川町の採撰亭鉄屋十兵衛より生涯唯一の刊行物となる『稲川詩草』を出版した。同書巻末には「稲川文草」「周官聯事図」「古今韻箋」「字緯」の出版予告があるが、刊行を見なかった。 文政9年(1826年)3月13日、「文緯」を携え家に唯一残っていた次女の望と江戸に出た。その望も、琴を習うため同伴した。当初は陰山仲海宅に仮寓し、4月19日八丁堀の長屋に移ったが、5月下旬に痢病に倒れた。陰山宅に戻り、望に看取られながら7月6日息を引き取った。広尾香林院で荼毘に付され、長男の清臣により遺骨が持ち帰られ、三男の維竑の勤める駿府宝泰寺に葬られた。墓碑は松崎慊堂撰、狩谷棭斎書。 墓は大正5年~6年頃に玄孫の山梨昌明により、稲川の崇福寺に移された。
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