楽山亭時代とは? わかりやすく解説

楽山亭時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 02:54 UTC 版)

山梨稲川」の記事における「楽山亭時代」の解説

清臣が元服した文政元年1818年1月28日稲川稲川村離れて城下大工町葵区大工町)に転居し、これを薫徳精舎、また幼時学んだ一麟の塾に因み楽山亭と号した。また大野斎等文人仲間楽山吟社を結び、試作量も増加した文政3年1820年11月9日長男清臣宅に戻り半年程近い今川氏所縁花圃という地の東に新居構え精舎称した花園の場所は「清水尻の玉の井の筋向ひ」という。翌年駿府江川町の採撰亭十兵衛より生涯唯一の刊行物となる『稲川詩草』を出版した同書巻末には「稲川文草」「周官聯事図」「古今韻箋」「字緯」の出版予告があるが、刊行を見なかった。 文政9年1826年3月13日、「文緯」を携え家に唯一残っていた次女の望と江戸出た。その望も、琴を習うため同伴した当初陰山仲海宅に仮寓し、4月19日八丁堀長屋移ったが、5月下旬痢病倒れた陰山宅に戻り、望に看取られながら7月6日息を引き取った広尾香林院荼毘付され長男の清臣により遺骨持ち帰られ三男の維竑の勤め駿府宝泰寺葬られた。墓碑松崎慊堂撰、狩谷棭斎書。 墓は大正5年6年頃に玄孫山梨明により、稲川崇福寺移された。

※この「楽山亭時代」の解説は、「山梨稲川」の解説の一部です。
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