根岸興行部から連合映画芸術家協会へ
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「根岸寛一」の記事における「根岸興行部から連合映画芸術家協会へ」の解説
1918年(大正7年)、叔父の小泉のすすめで新聞社を辞め、同郷の根岸浜吉率いる根岸興行部へ入社する。同社は1887年(明治20年)浅草公園六区に最初の劇場である「常盤座」を建てた大興行会社であり、ほかに「金龍館」も経営していた。劇場で下足番をしていた頃に大学の同窓である鈴木茂三郎が前を通ったため、「お前も手伝え」「そうだな」と二人で客の履物を揃えている。 1921年(大正10年)に根岸家次女(寛一の従妹、小泉の実娘)と結婚して根岸姓となる。興行の世界を知り各界の人物との交流をもつ。関東大震災(1923年)の災禍により打撃をうけた根岸興行部は、松竹系列の傘下に入り、根岸は一時鎌倉へひきこもるがのちに復帰。 1925年(大正14年)1月15日、根岸興行部で、マキノ省三に新国劇の澤田正二郎を斡旋。マキノは沢田主演で『国定忠治』を製作、一カ月のロングランという日本映画空前のヒットを飛ばす。 このヒットをきっかけに、同年3月、作家の直木三十五に誘われて奈良の映画製作集団「連合映画芸術家協会」設立へ参加。経営を担当するが2年で失敗、再び浅草へ戻り芝居興行に携わるも結局は振るわず、借金を抱える。1929年(昭和4年)千葉県の市川市に家族と引っ越すが差押えと転居を5回も繰り返し、市川時代はメダカ獲りをして暮らしていたとされる。惨状を見かねた連合通信東京支局時代からの友人、古野伊之助は自分が役員をつとめる「新聞連合」(後の同盟通信社)の演芸部を新設、根岸を招く。
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