根岸興行部から連合映画芸術家協会へとは? わかりやすく解説

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根岸興行部から連合映画芸術家協会へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 17:35 UTC 版)

根岸寛一」の記事における「根岸興行部から連合映画芸術家協会へ」の解説

1918年大正7年)、叔父小泉のすすめで新聞社辞め同郷根岸浜吉率い根岸興行部入社する同社1887年明治20年浅草公園六区最初劇場である「常盤座」を建てた大興行会社であり、ほかに「金龍館」も経営していた。劇場下足番をしていた頃に大学同窓である鈴木茂三郎が前を通ったため、「お前も手伝え」「そうだな」と二人で客の履物揃えている。 1921年大正10年)に根岸次女(寛一の従妹小泉の実娘)と結婚して根岸姓となる。興行世界知り各界人物との交流をもつ。関東大震災1923年)の災禍により打撃をうけた根岸興行部は、松竹系列の傘下入り根岸一時鎌倉ひきこもるがのちに復帰1925年大正14年1月15日根岸興行部で、マキノ省三新国劇澤田正二郎斡旋マキノ沢田主演で『国定忠治』を製作、一カ月ロングランという日本映画空前ヒットを飛ばす。 このヒットきっかけに、同年3月作家直木三十五誘われて奈良映画製作集団連合映画芸術家協会設立参加経営担当する2年失敗、再び浅草戻り芝居興行携わる結局は振るわず借金抱える。1929年昭和4年千葉県市川市家族引っ越すが差押え転居を5回も繰り返し市川時代メダカ獲りをして暮らしていたとされる惨状を見かねた連合通信東京支局時代からの友人古野伊之助自分役員をつとめる「新聞連合」(後の同盟通信社)の演芸部新設根岸を招く。

※この「根岸興行部から連合映画芸術家協会へ」の解説は、「根岸寛一」の解説の一部です。
「根岸興行部から連合映画芸術家協会へ」を含む「根岸寛一」の記事については、「根岸寛一」の概要を参照ください。

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