松竹女優養成所第1期生とは? わかりやすく解説

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松竹女優養成所第1期生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 03:08 UTC 版)

東愛子」の記事における「松竹女優養成所第1期生」の解説

1899年明治32年1月15日大阪府大阪市南区恵美須町現在の同府同市浪速区恵美須)に生まれる。 当時4年制旧制小学校1909年明治42年)に卒業旧制高津女学校、および梅花塾を卒業している。1912年大正元年9月25日京都新設され松竹女優養成所に満13歳入所同所第1期生となる。20人の同期生には、常盤操子和歌浦糸子、富士野衣笠みどり(中退)、可知喜代子、住の江蘭子三品花子伊達京子河原月子、渡君江小坂きみ子らがいた。1913年大正2年)、大阪道頓堀浪花座で初舞台を踏む。翌1914年大正3年3月には、尾上多見之助らの『天保の改革』等を上演した京都・南座で、現代劇『庭』に常盤操子とともに出演1915年大正4年3月には、同じく南座で、中村福之助主演した橋本木庵原作の『恨の真葛』に常盤操子和歌浦糸子、富士野、住の江蘭子可知喜代子、三品花子とともに出演した記録残っている。1917年大正6年)に発行されゴシップ本『女優総まくり』には、おなじ松竹女優養成所第1期生の常盤操子和歌浦糸子、富士野、住の江蘭子可知喜代子、伊達京子らにはそれぞれ1章割かれ記述されているが、愛子の章は存在せずゴシップ批判記事記述されていない1918年大正7年)には、常盤操子とともに喜多村緑郎新派本流第2期成美団入団し新派女優になる1919年大正8年)に発行された『女盛衰記 女優の巻』の「東愛子」の章には「浪華女の愛子よ。お前は新國劇の中で、一番可愛く光つてゐる女だ」に始まり賛美されているが、当時澤田正二郎新国劇にも出演していたことは、吉井勇ものちに回想している。当時澤田親しかった村嶋歸之は、楽屋風呂にまで入るほどの新国劇との親密交流をしていたが、風呂愛子と偶然いっしょになりひどく赤面したことを回想している。1921年大正10年)には、柳永二郎とともに角座出演、翌1922年大正11年)には、角座の「若手新旧合同」に出演し関西歌舞伎二代目市川荒太郎出逢う同年、荒太郎結婚した1923年大正12年)に発行された『現代俳優名鑑』の「市川荒太郎」の項によれば同年当時大阪市南区天王寺北山町5460番地現在の同市天王寺区上之宮町)に夫の荒太郎使用人たち住んでいたようであるが、一方同書の「東愛子」の項には、出生地と同じ場所に父母とともに住んでいる旨が記載されている。当時身長は、四尺九寸七分(約150.6センチメートルであった

※この「松竹女優養成所第1期生」の解説は、「東愛子」の解説の一部です。
「松竹女優養成所第1期生」を含む「東愛子」の記事については、「東愛子」の概要を参照ください。

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