東部への転戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/16 13:31 UTC 版)
1944年4月にヘルマン・ゲーリング装甲師団はトスカーナ周辺の戦線から引き揚げられヘルマン・ゲーリング第1降下装甲師団(Fallschirm-Panzer-Division 1. Hermann Göring)として再編された。この再編は組織自体には大きな変更を加えられなかったが、この期間に戦線から戻ってきた師団には8カ月以上も続いた戦闘での損耗を充足するために再装備と補充兵、車両の更新を行った。予測される連合国軍の侵攻に備えて師団をフランスへ送る手配がなされた。 5月12日の連合国軍のローマに向けての侵攻によりフランスへの転戦はキャンセルされヘルマン・ゲーリング第1降下装甲師団は戦線へ呼び戻された。戦闘を継続しつつローマへ後退し、師団は最後のドイツ兵が脱出するまで連合国軍を押しとどめた。破壊を避けるためにイタリアの首都は無防備都市宣言を表明していたために師団は6月4日にはローマ以北へ引き下がった。師団は連合国軍のフィレンツェへの斥候攻撃を防衛するためにそこで布陣したが、7月15日には師団は東部戦線への移送準備のために戦線からの離脱命令を受けた。 この期間に数名の熟練幹部がラドムで編成中の兄弟師団ヘルマン・ゲーリング第2降下装甲猟兵師団の編成のためにヘルマン・ゲーリング第1降下装甲師団から引き抜かれた。第1降下装甲師団の補給部隊も多くの幕僚仕官と共に2つのヘルマン・ゲーリングを冠する師団を運用するヘルマン・ゲーリング第1降下装甲軍団の編成に向けて分離された。 ヘルマン・ゲーリング第1降下装甲師団は、ドイツのプロパガンダにかかると"ワルシャワ要塞"と言い表せられる廃墟となったワルシャワを防衛する新しく編成されたヴァイクセル軍集団に配属された。師団は9月半ばにヴィスワ川前線に到着し、直ぐにModlin - ワルシャワ間のヴィスワ川にいた歴戦の第5SS装甲師団 ヴィーキングと共に戦闘に投入された。激しい戦闘で師団はヴィーキングと共に赤軍第3戦車師団を効果的に撃破した。ワルシャワ蜂起の発生により赤軍の攻撃は中断し(恐らくスターリンの蜂起が失敗することを見越した意図的な命令で)、ポーランドの国内軍(Armia Krajowa)が背後で自滅するまで戦っている間に前線には一時の平穏が生じた。
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