東北地方への行脚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 21:51 UTC 版)
江戸時代の俳諧師は、師匠の許しを得て修行の旅に出る習慣があった。師匠からは各地の俳人への紹介状を渡され、各地を行脚する中でそういう俳人を尋ねて廻るのである。しかし師匠からの紹介があるとはいっても簡単に世話になることは出来なかった。紹介状とともにお互いの句を披露しあうと、さっそく付句の試験がある。そこで主人が納得するほどの腕前であれば客人として遇されるものの、上手くいかなければこれこれの宿があるから明日おいでくださいと言われてしまう。連日このような環境下で、俳諧師はその腕を磨いていった。 一茶も寛政元年(1789年)、27歳の時に東北地方への長旅に出たことが明らかになっている。一茶が確実に訪れた記録が残っているのは象潟で、当地の肝煎で俳人でもあった金又左衛門の家に宿泊した。金が自邸に宿泊する文人たちに揮毫を依頼して編纂された「旅客集」に、一茶の文と俳句が遺されている。象潟の他に一茶が訪ねた場所ははっきりとしないものの、後年一茶は松島、恐山、外が浜の句を作っているため、この時の旅で訪れた可能性が指摘されている。なお一茶は寛政元年(1789年)の旅について「奥羽紀行」という紀行文を執筆したと伝えられているが、現存しない。
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