条約とグレイの影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/16 23:56 UTC 版)
テ・フェロフェロはワイタンギ条約への署名を拒否したものの、自ら支配下に置いた地域におけるパケハ(イギリス或いはアイルランド系白人)には歯向かわなかった。元々ポタタウは自らの領地にパケハが来たことを歓迎しており、娘のティリアが商人と結婚した程である。また、植民地政府への支援も行い、1849年には当時のジョージ・グレイ(英語版)知事と協定を締結。ホン・ヘケ及びカウィティの下でマオリ人が暴動を引き起こした後のオークランドに対し、軍事的保護を供給することとなった。グレイは法を整備し政府の正当性を主張するに当たり、政府側についたマオリ人であるクパパを支援する重要性を悟っていた。 1844年、レムエラで行われた部族の大会にて司会を務めた。現在のオークランドに小屋を建て、条約の履行に関して多くの議論や交渉を行った。宗主国であるイギリス王室へ主権を委譲しなかったものの、ニュージーランド知事とりわけ自らのためマンゲレにコテージを建設したジョージ・グレイとは親交を深めた。このコテージでは、グレイがテ・フェロフェロにマオリ問題に関して助言を仰いだ。最初にワイカト族が土地を売却し、テ・フェロフェロはマヌカウ周辺にある部族の土地を一部売ることとなったが、1846年、マオリが所有及び耕作を行っていない土地を政府の資産とする布告に激しく抗議した。 ニュージーランドに入植者が押し寄せ、植民地政府がそのような法律を通過させるにつれ、テ・フェロフェロはパケハと疎遠になった。これは少なくとも、ワイカト族の土地へ入植者が到着したことに因るものであり、マオリ人の土地を勝手に購入したり手に入れたりするなど、権利侵害がしばしば横行した。テ・フェロフェロはこうした問題に手を拱いているはずも無く、3年後ワイカト族の耕作地を差し押さえたことで、これまでの良好な関係が崩壊したワイカト侵略に直面することとなる。
※この「条約とグレイの影響」の解説は、「ポタタウ」の解説の一部です。
「条約とグレイの影響」を含む「ポタタウ」の記事については、「ポタタウ」の概要を参照ください。
- 条約とグレイの影響のページへのリンク