李氏朝鮮における医女制度とは? わかりやすく解説

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李氏朝鮮における医女制度

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/05 13:44 UTC 版)

医女」の記事における「李氏朝鮮における医女制度」の解説

第3代王太宗6年1406年)、済生院に命じて公奴婢童女の中から数十人を選び医薬鍼灸などを教えた事を始まりとする。朱子学が非常に重んじられ朝鮮では、女性男性に肌を見せる事を極端に禁じたため、重病女性男性医師診察治療受けられないまま死亡する例が後を絶たなかった。そのため、女性診察する医女が必要となったのである。 この処置好評であったとされ、診療求める者が多く需要応じきれないため、新たに奴婢の中から13歳以下の童女選別し、これを養育した。医女は、妓生とも言われ一牌官妓という身分与えられ宮中歌舞音曲演じ妓生女医兼ねた。更に医女宮中の他、一般庶民治療する恵民署にも配属された。医女育成制度は第4代世宗期に完成を見、第9代成宗期が全盛期であったしかしながら成宗時代より成宗女色に関して寛大な傾向があり、身分隠して巷の妓生戯れたと「野史」に記される風紀乱れ徐々に生じ次代燕山君時代に入ると、歴代の王中でも特に女色好んだこの王の政策で、紊乱極まって、王の酒宴医女侍らせることが多くなり、医療職務より、心を楽しませて癒す行為着目され、役目逸脱して妓生職務同じようになっていった。 燕山君クーデターにより廃位され、その腹違いの弟である中宗王位に就く綱紀粛正行い中宗5年11年12年30年医女酒宴に出る事を禁じる令を出しているが、何度も令を出して余り効果無く李氏朝鮮後半時代になると医女妓生事実上同化し、妓生逆に内宮医療を見るケース増え医女制度は完全に廃れていった。1895年甲午改革医女の名称も消滅した

※この「李氏朝鮮における医女制度」の解説は、「医女」の解説の一部です。
「李氏朝鮮における医女制度」を含む「医女」の記事については、「医女」の概要を参照ください。

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