朝日座・京山亭の時代
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1910年(明治43年)8月、京都府京都市上京区の西陣京極に芝居小屋朝日座として開館した。新京極通に松竹が直営した京都朝日座とは異なる。明治末から大正初期にかけて、東に西陣京極、西に五番町を擁する千本通界隈は、1912年(大正元年)に京都市電千本線が開通し、当時同館のほか、千本座(経営・牧野省三、1901年開館、のちの千本日活館)、京極座(1910年開館、のちの西陣東映劇場)、福の家(1911年開館、のちの西陣大映)、長久亭(1911年開館、のちの京都長久座)、大黒座(1920年開館、のちの西陣キネマ)といった芝居小屋・寄席が次々に開業し、新京極につぐ歓楽街として発展する時期にあった。1912年(大正元年)に千本座が日活の直営館になり映画常設館に業態変換(映画館化)したように、これらの実演劇場は追って映画館に変わっていった。 1923年(大正12年)には、寄席に業態を変更し京山亭と改称した。『上京 史蹟と文化』(1992年第2号)には「京山亭(昭和十二年寄席)」とあるが、同年9月2日付の『大阪朝日新聞京都附録』に同紙1万5,000号記念として、京都市内の興行割引券を読者に配布するとして挙げられたリストに、すでに長久亭、福之家(福の家)、西陣富貴(のちの富貴映画劇場)とともに「京山亭」として記載され、普通席に限り半額の割引を行った記録が残っている。同記事によれば、このころすでに日活の直営館であった千本座もこのリストに挙げられており、各等席いずれも半額の割引を行ったという。東京市四谷区にも寄席「京山亭」(かつての四谷山本亭、経営・京山大教)は存在したが、同館との関係は不明である。 この西陣の「京山亭」には、夢路いとし・喜味こいしの師匠であり、上方漫才の草分けとされる荒川芳丸も出演していたが、芳丸は1940年(昭和15年)10月20日、同館の高座で急死している。第二次世界大戦が始まり、戦時統制が敷かれ、1942年(昭和17年)、日本におけるすべての映画が同年2月1日に設立された社団法人映画配給社の配給になり、映画館の経営母体にかかわらずすべての映画館が紅系・白系の2系統に組み入れられる。かつての西陣地区の芝居小屋・寄席は、千本座はそのままの館名で、京極座は西陣ニュース映画館に、福の家は新興映画劇場から西陣大映劇場に、長久亭は京都長久座に、大黒座は西陣キネマに変わっており、すべてすでに映画館に転換していたが、「京山亭」だけは『映画年鑑 昭和十七年版』には掲載されておらず、寄席を続けていた。
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