朝日座・京山亭の時代とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 朝日座・京山亭の時代の意味・解説 

朝日座・京山亭の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 10:48 UTC 版)

千中劇場」の記事における「朝日座・京山亭の時代」の解説

1910年明治43年8月京都府京都市上京区西陣京極芝居小屋朝日座として開館した新京極通松竹直営した京都朝日座とは異なる。明治末から大正初期にかけて、東に西陣京極、西に五番町擁する千本通界隈は、1912年大正元年)に京都市電千本線開通し当時同館のほか、千本座経営牧野省三1901年開館、のちの千本日活館)、京極座(1910年開館、のちの西陣東映劇場)、福の家(1911年開館、のちの西陣大映)、長久亭(1911年開館、のちの京都長久座)、大黒座1920年開館、のちの西陣キネマ)といった芝居小屋寄席次々開業し新京極につぐ歓楽街として発展する時期にあった1912年大正元年)に千本座日活直営館になり映画常設館業態変換映画館化)したように、これらの実演劇場追って映画館変わっていった。 1923年大正12年)には、寄席業態変更し京山亭と改称した。『上京 史蹟文化』(1992年第2号)には「京山亭(昭和十二年寄席)」とあるが、同年9月2日付の『大阪朝日新聞京都附録』に同紙1万5,000号記念として、京都市内興行割引券読者配布するとして挙げられリストに、すでに長久亭、福之家(福の家)、西陣富貴(のちの富貴映画劇場とともに京山亭」として記載され普通席限り半額割引行った記録残っている。同記事によればこのころすでに日活直営であった千本座もこのリスト挙げられており、各等席いずれも半額割引行ったという。東京市四谷区にも寄席京山亭」(かつての四谷山本亭経営京山大教)は存在したが、同館との関係は不明である。 この西陣の「京山亭」には、夢路いとし・喜味こいし師匠であり、上方漫才草分けとされる荒川芳丸も出演していたが、芳丸は1940年昭和15年10月20日、同館の高座急死している。第二次世界大戦始まり戦時統制敷かれ1942年昭和17年)、日本におけるすべての映画同年2月1日設立され社団法人映画配給社配給になり、映画館経営母体かかわらずすべての映画館紅系白系2系統組み入れられる。かつての西陣地区芝居小屋寄席は、千本座そのままの館名で、京極座は西陣ニュース映画館に、福の家は新興映画劇場から西陣大映劇場に、長久亭は京都長久座に、大黒座西陣キネマ変わっており、すべてすでに映画館転換していたが、「京山亭」だけは『映画年鑑 昭和十七年版』には掲載されておらず、寄席続けていた。

※この「朝日座・京山亭の時代」の解説は、「千中劇場」の解説の一部です。
「朝日座・京山亭の時代」を含む「千中劇場」の記事については、「千中劇場」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「朝日座・京山亭の時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「朝日座・京山亭の時代」の関連用語

1
18% |||||

朝日座・京山亭の時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



朝日座・京山亭の時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの千中劇場 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS