朔平門外の変の影響
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「八月十八日の政変」の記事における「朔平門外の変の影響」の解説
詳細は「朔平門外の変」を参照 この間の5月20日夜、京都では国事参政の姉小路公知が殺害された。その翌日、御所の九門の警備が、長州(堺町門)、仙台(下立売門)、水戸(蛤門)、因州(中立売門)、薩摩(乾門)、備前(岡山藩、今出川門)、阿波(徳島藩、石薬師門)、土佐(清和院門)、肥後(寺町門)の各藩に命じられた。 姉小路は、三条実美とともに急進的な攘夷派公家の代表格であったが、4月の将軍下坂時に監視役として随行した際、積極開国論者の幕府軍艦奉行並勝海舟から海岸防御について意見を聞き、幕府艦にも乗り込んで摂津・播磨・淡路など大坂湾岸を巡視し、勝の説に感化を受けて帰京した。そのため、土佐の武市瑞山、肥後の轟武兵衛ら尊攘派の失望をかっていた。 5月22日に土佐脱藩浪士の那須信吾が、現場に遺棄されていた刀は薩摩藩士田中新兵衛のものだと証言した。田中は幕末の四大人斬りの一人に数えられ、武市瑞山と義兄弟の契りを結び、岡田以蔵などと徒党を組んで「天誅」を繰り返した過激尊攘派である。だが、田中は京都町奉行永井尚志の尋問に対して口をつぐんだまま隙を見て自害したため、その背後関係は究明されなかった。関与を疑われた薩摩藩は謀略だと抗議したものの、結局九門警備から外された上、九門内の藩士の往来も禁じられ、京都における地歩をさらに後退させることとなった。
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