有山じゅんじ
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有山 じゅんじ(ありやま じゅんじ、本名:有山 淳司、1953年1月4日 - )は、日本の歌手、ギタリスト。
注釈
- ^ 有山岸『そろそろおこか』DISC-2インタヴュー[2]。
- ^ 『ラグタイムの流儀』[3]、「ぶんちゃっ」でのインタヴュー。
- ^ 永井隆『ENDLESS BOOGIE[4]』、p. 185。
- ^ 『アリ・ヤ・マニア』ライナーノーツ内インタヴューより[5]。
- ^ 「EAZY」のインタビュー[6]、p.4。
- ^ 「EAZY」ibid.[6]、p.4では、中学二年生の時、最初のステージがサンケイホールで、「Bマイナーも押さえられへんかった」ので「そういう曲が出てきたら何も弾かんと立ってるだけ」なこともあったと記載されている。「イサトちゃんの横で弾いてたからな。」
- ^ 永井、ibid.[4]、p. 40。
- ^ 後述『ゆふすげびとのうた』のみ残したシンガーソングライター。
- ^ のちの中津川でのレコードでは「ぼく」とされている。
- ^ 産経新聞2016/06/06[8]より、「ヤマハ心斎橋店は昭和27年にオープンし、53年に建て替えられ、昨年(2015年)3月に閉店。」
- ^ 永井、ibid.[4]、p. 40。「その頃、心斎橋のヤマハにアマチュアサークルがあって、おれ(有山)はそこでゴチャゴチャやっとったな。キー坊とか石田(長生)とかもおってな。キー坊は「BST」やってて、おれは「ペンタングル」やって、「アリス」のベーヤン(堀内孝雄)もおってクロスビーのコピーやっとったな。」
- ^ 上田正樹『戻りたい過去なんてあらへん』[9]、p.51。「(上田が)石田と出会ったのは、心斎橋のヤマハのスタジオ。石田はまだ高校生で、ヤマハのジャズのギター教室に通ってい」た。
- ^ 「EAZY」op.cit.[6]、p.6。「(今、ジャケット見ている)そのレコード聞けへん(か?)。黒人の(曲で、)雨が降ってるの(、)ステレオで聞いてもエエことないから上げる(ママ)わ。」
- ^ 「EAZY」ibid.[6]、p.6ではYAZOOの1012番として、ブラインド・ブレイクやタンパ・レッドについて述べられているが、それは品番の表記ミス?。『アリ・ヤ・マニア』ibid.[5]において『Guitar Wizards 1926-1935(YAZOO、L-1016)』と言及されている。「EAZY」p.7では、黒人ギタリストとしてその他ビッグ・ビル・ブルンジィ、スクラッパー・ブラックウェルらからも強い影響を受けているとも話す。
- ^ 永井隆『ドッグ・デイ・ブルース』[10]、p.213。「その(軽音楽)同好会へ行く前に、僕(永井)も小堀も「軽音楽部」を訪ねている。「同志社の軽音」と言えば、ちったァ(ジャズで)名の知られたクラブだった。しかし、「軽音」には入らず同好会へ入った・・・。」
- ^ 上田、ibid.[9]、p.72。
- ^ 「オールマン・ブラザース・バンド」の2ndアルバムタイトルをバンド名とした「アイドルワイルド・サウス」のリーダー、スライド・ギタリスト。後に「ツイスト」にも参加。
- ^ 永井、op.cit.[4]、p. 40。
- ^ 上田、ibid.[9]、p.77。1974年ワンステップ・フェスティバルに出演するまでは、「上田正樹とそのグループ」(等)と名乗っていた。
- ^ 西心斎橋アメリカ村で1963年からジャズ喫茶、1972年ライブハウスとして改装。2006年に閉店した。
- ^ 大宮下立売下ルにある京都ライブハウスの老舗。1973年2月オープン。
- ^ JIROKICHI アニバーサリー実行委員会編『ジロキチ・オン・マイ・マインド[12]』、p. 66。
- ^ ソロコンサートであったのか、「ウエストロード」等とのフェスであったのか、山岸が飛び入りしに行ったのかは定かではない。
- ^ その頃の感じは、『Blues 1973-1975』(1978年、Showboat。再発CD: 1999年、SWAX-104、sky station)や『LOST TAPES』(2005年、ABCS-91、Absord Music Japan)、『憂歌団』(1975年、Showboat。再発CD: 1999年、SWAX-102、sky station)のリスペクトもの等。
- ^ 井上ケン一、井上憲一、ケニー井上、等々。
- ^ 『ぼちぼちいこか』のライナーノーツ(増渕英紀)から。1975年6月の少し前となる。
- ^ ジャケット写真は道頓堀「くいだおれ」前で、くいだおれ太郎を挟んで向かって左手に上田、右手に有山が写っている。
- ^ 上田、ibid.[9]、pp.71-77。上田は徳間音工のディレクターから『ムゲン』(MUGEN。赤坂のディスコ。日本で初の黒人バンドの生演奏を堪能しながら踊れる店。高級ゴーゴークラブ)でのライブをレコードにしたいと言われたが、ジャスト・コピーなので出したくない、有山とコピーではないものをやりたいと『ぼちぼちいこか』を二週間で作った、と述べている。
- ^ 上田、ibid.[9]、pp.144-145。
- ^ 「EAZY」ibid.[6]、p.4。
- ^ 1イ、3サ、10ト。
- ^ 「EAZY」ibid.[6]、p.7によると、「『ありのままじゅんじ』は"月"か"ベイビー"やねん。」
- ^ 再発CDでは、6、7曲目。
- ^ 1929年、ブラインド・ブレイク。スペルは「Diddie Wa Diddie」で、「Diddy Wah Diddy」とは別の曲。
- ^ 尾関隆は、憂歌団に沖てる夫とともに楽曲提供している兄、尾関真と名古屋で「尾関ブラザーズ[14][15][16][17]」を結成し、関西にもよく来ていた。音源はこの有山らとのものと、Weeping Harp Senoh『Messin' around』(1976年、再発CD: 2007年、VICL-62497、Victor)の08「You're The One」でサイドを切っているものが残されている。隆のいない「尾関ブラザーズ」としては、Various Artists『NOT THE LAST - LIVE AT OPENHOUSE』(1991、OHST-001~2、酒富蓄音)CD-2、01「シカゴバウンド」(録音: 15th Feb 1991)がある[18]。西依一実は1980年にニュー・ウェーブバンド「ビジネス」を結成。
- ^ 当時大阪では、アコースティック・ギタリストがジャムる「ワークショップ」等銘打ったライブイベントも継続的に開催されていた。
- ^ 『ぼちぼち』や『ありのままじゅんじ』の曲のほか、松村正秀の「坂道」を好きで演奏したり、「ウォバッシュ・ラグ」(1927年、ブラインド・ブレイク)や「A列車のラグ」(Kenichi Inoue(a.k.a 井上ケン一)『LAZY BABY KENI』(1975年、3A-2019、Showboat。再発CD: 2007年、RATCD-4310、MUSKRAT)A-1のリスペクトバージョン)もよく弾いていた。
- ^ 寺田町にあったライブハウス/レンタルホール。1979年-1984年。
- ^ 1929年。1943年、「キング・コール・トリオ」他。
- ^ 1929年。ファッツ・ウォーラー他。
- ^ 手元にあった「プレイガイドジャーナル」[19]を見ると、二人でのライブが月に複数回行われており、内田は憂歌団としても活動し、有山はソロでも活動。デュオはその後もぼちぼち続けられ、テーマソングとして「第三の男」を編曲し演奏したり、「天使の歌声有山淳司と悪魔のギター内田勘太郎、「アーリーカーンズ・セレナーデ・バンド」」と名乗ったり、黒田征太郎が割り込んで「黒有勘」と冠したこともあった。レパートリーとしては、やはり『ぼちぼち』や『ありのままじゅんじ』、「憂歌団」のナンバーや他の注釈等にあるもの以外では、「ジー・ベイビー[注釈 39]」や「エノケンの月光価千金」、「エイント・ミスビヘイヴン[注釈 40]」、鯖ジン、時代遅れのバースデイプレゼント等も良く演奏されていた。
- ^ 上田、ibid.[9]、pp.152-154。
- ^ 1965年、「ローリング・ストーンズ」。
- ^ 放送曲目は、オープニング・パート1‐サウス・トゥ・サウス/ステージ・マン/ウ・プ・パ・ドゥ/可愛い女と呼ばれたい/俺の借金全部でなんぼや/みんなの願いはただひとつ/モノローグ(上田正樹)/オープニング・パート2/リッキン・スティック/最終電車/むかでの錦三/お前を離さない-サティスファクション[注釈 43]‐お前を離さない/ホールド・オン 抱きしめていよう/大阪へ出て来てから/大阪オン・マイ・マイン(大阪も雨に沈んでいるかい(詩: 金森幸介、曲: 藤井裕))。
- ^ その前に、下北沢『スーパーマーケット』(ライブハウス)でもライブがあった。
- ^ 恵比寿にあったライブハウス。
- ^ 1972年、ボビー・チャールズ。
- ^ 1966年、パーシー・スレッジ。
- ^ 1949年、アントン・カラス。
- ^ 1938年、「ボブ・ハワード・アンド・ヒズ・ボーイズ」他。
- ^ 1930年。1960年、レイ・チャールズ他。
- ^ 曲目は、[サウス] とったらあかん/[サウス+勘太郎]He's Got All The Whiskey[注釈 47]/When A Man Loves A Woman[注釈 48]/雨の降る夜に/ホールド・オン 抱きしめていよう((当時の)新曲)/[有勘] テーマ(第三の男[注釈 49])/愛想つきたか、ベイビー/今日もデート/[有勘+中西] If Youre Are Viper[注釈 50](勘太郎Vo.)/ダイナ(井上ケン一、ibid.、 A-2のリスペクト、ディックミネバージョン。)/[サウスへ戻る] 大阪へ出て来てから/あこがれの北新地/梅田からナンバまで/[サウス+勘太郎] Georgia On My Mind[注釈 51]/シカゴ・バウンド(「憂歌団」Ver.)/可愛い女と呼ばれたい/俺の借金全部でなんぼや/バッド・ジャンキー・ブルース/なつかしの道頓堀/[アンコール、サウス] Come On おばはん/[再アンコール、サウス+勘太郎] みんなの願いはただひとつ/王・メイコの唄。 さらにその前日は「憂歌団」がライブ。
- ^ 2008年、CDSOL-1269、ウルトラ・ヴァイヴ。
- ^ ℳ番号、タイトルはサントラLP『じゃりン子チエ~東宝映画オリジナル・サウンド・トラック~』(1981年、MKF-1068、キティ・レコード)の表記に沿う、とされる。
- ^ 1981年、3B-28003、TRIO RECORDS。再発CD: 2023年、CDSOL-2016、SOLID/TRIO/SHOW BOAT他。
- ^ 有山バージョン≒有勘バージョンでは「~伊藤つかさよりも~」と歌われていた、こともある。
- ^ 1938年、ファッツ・ウォーラー他。
- ^ 1929年、「メンフィス・ジャグ・バンド」。
- ^ GOOD NIGHT SWEET HARTは編曲: 憂歌団。
- ^ 『拾得』と並ぶ、富小路仏光寺下ルにある、京都ライブハウスの老舗。1975年頃からライブ開始。ソロや『有勘』としても、よくライブをしていた。
- ^ 京都円町にあったライブハウス。有山のライブは御所の南へ移った時期であったか、と思われる。その後も『アザー・サイド』等名を変え場所を変え、2024年現在一乗寺で『わからん屋』として営業。『アリ・ヤ・マニア』[5]では『どんぞこハウス』と表記されている。
- ^ UK.PROJECT創業者。
- ^ ここでのバビロンは、ラスタファリズムにおける悪の体制としてのバビロンではなく、メッカの意味でのバビロンである、と思われる。キャプション上は西部講堂のその歴史経過やポジション等について記されているが、映像とはリンクしておらず、一部前日の雨による水たまりの残る、西部講堂でのライブ実況ドキュメンタリーとして鑑賞でき得る。
- ^ 講堂前で足場を組みロープを垂らして行われた。
- ^ 「サウス」の演奏曲目は、SOUTH TO SOUTH/FUNKY PENGUIN/LOVE ME TENDER/あこがれの北新地/オレの借金全部でなんぼや?(最後、タイミングがズレてしまうが)/とったらあかん/梅田からナンバまで/Come on おばはん/大阪へでてきてから/OSAKA ICHIBAN \EN POWER/WALKIN' THE DOG/Ooo Poo Pah Doo/むかでの錦三/お前を救けにゆく(上田が有山を紹介したところ、まずクンチョーがアップに。有山にパンしたときには有山はお辞儀中)/[アンコール] ルート66/TRY A LITTLE TENDERNESS/[再アンコール] I CAN'T TURN YOU LOOSE。上田はMCとして「Wink」や人生幸朗、美川憲一ネタ、「『死ぬ時は別々や』ど」でウケる。なお、上田は再結成について、上田、ibid.[9]、pp.152-153で、1980年の再結成はクンチョーがアメリカで行方不明になったのが発見されたことを喜んで行ったとしているが、その'80年のFM放送(編集されたのは当然としても)ではMCやモノローグでもまったく述べられておらず、逆に'91年の映像では何回かその発見を喜んで述べている。
- ^ 当時のチラシ[21]より。
- ^ ドラマパートでは石田、有山の他、毎日放送アナウンサーの小池清、佐々木美絵や、木村充揮、ちわきまゆみ、羽野晶紀(声のみ)、清水興、野村義男、忌野清志郎、中島らもらも出演。
- ^ 制作局次長: 有山じゅんじ「すでに、これ以上の出世はあきらめ仕事意欲ゼロの男。」
- ^ 有山[20]はいう「「平成トリオ」は、平成に変わってすぐ、金森幸介が服部緑地の野外音楽堂でフリー・コンサートをやるいうんで、呼んでくれてね。で。その3人で出たわけや。ギャラなしの手弁当やったけど、今と違って当時は客席が芝生でね、ええ感じやった。僕たちも気分良く演奏できて、それから「平成トリオ」として定期的にやるようになったわけやね。」
- ^ 中川イサトの孫弟子、加藤政彦[22]作。同名タイトルの二枚目アルバム『あたしは不幸を呼ぶ女』(2005年、BEER-0002、PASTA-RECORDS)でCD化。
- ^ 回数はwww.es-346.com、Ibid.[23]の記録/考察に従って、初回を0回とカウントしている。
- ^ 1929年、ブラインド・ブレイク。
- ^ 1968年、「ザ・バンド」。
- ^ 1971年、キャロル・キング。ジェームス・テイラー。
- ^ 「てっちり」にもちなんだもの。
- ^ 上田、ibid.[9]、p.92。「有山は、(クンチョーとはタイプが違い)フェンダーのジャガーをギャイーン! みたいな感じで鳴らす。」
- ^ 有山じゅんじと上田正樹『ライブアット 道頓堀くいだおれ ぼちぼちいこか ザ・ムービー』[24]番外編。
- ^ 当日の様子は「新聞、インターネットでも取り上げられ」、メイン・イベントとして「『ぼちぼちいこか』再開ライブ」が企画されたが、「警察から中止命令が出」て「シークレット・ライブ」となった[注釈 77]」。そのシークレットな模様は、あこがれの道頓堀の一部分のみ「かんさい熱視線[25]」で放送された。
- ^ 下北沢のライブハウス。
- ^ 有山じゅんじと上田正樹、ibid.[24]Disc-1、インタヴューパート。
- ^ 有山は、「有山じゅんじ・インタビュー 「音楽の力」を語る!!」[29]のp.4で「1970年代初めですね。「サウストゥサウス」の『ぼちぼち行こか(ママ)』とかの時は、岸里に2年くらいおりました。天下茶屋とかあの辺りには、キー坊も一時おったけど、石田長生君とか、音楽やる人はあの界隈にたくさんいた。加川良さんとか大塚まさじさんとかなんかはちょっと上がった所でね、みんな近いところに住んでいたんです。」と話している。
- ^ 中川イサト[30]「・・・あの、僕の前に出た「ぼく」というグループがですね、あそこのリードギターを弾いてはりました彼がですねぇ。実は、あの「五つの赤い風船」の、一番最初のメンバーのうちの一人やったんです。そういうのは、意外と知らん(ママ)人が少ない(ママ)と思うんですけど。へっへっ。そういうことですわ。」
- ^ ペダルスチールで多くの人とセッション。
- ^ 「しーちゃん・ブラザース」のリーダー。しーちゃん。
- ^ 「正確には椅子を叩いていたのだ[31]。」
- ^ ライナーでは、上田正樹&金子ユリと誤植。「下北沢のマリちゃん」との表記もある。
- ^ 初出: Various Artists『8・8 ROCK DAY ロックの暑い日』(1974年、YC-5001~5002、徳間音楽工業。2枚組LP)。A面: 01-06。またバッド・ジャンキー・ブルースとファンキー・ブロードウェイのみVarious Artists『ALL ABOUT 8・8 ROCK DAY '74-'76』(1977年、BMC-1007~1008、徳間音楽工業。2枚組LP)のC面: 01、02に記録。
- ^ 作者佐藤博もメンバーである「ハックルバック」としての演奏が残されており(SHIGERU SUZUKI & HUCKLEBUCK『1975 LIVE』(2015年、FJSP239/240、ディスクユニオン))、また、佐藤自身のセカンドアルバム『Time』(1977年、LX-7009、日本コロムビア。再発CD: 2012年、TWCP-26、タワーレコード他)でも演奏している。
- ^ ポリス・ドッグ・ブルース(1929年、ブラインド・ブレイク)なら、オープンD(E)。
- ^ 1971年、「アイク&ティナ・ターナー」。
- ^ 1968年、ジェームズ・ブラウン。
- ^ 1967年、ウィルソン・ピケット。
- ^ 上田、ibid.[9]、p.61、83。「ワンステップ・フェスティバルの映像に残っているのは、彼だね。上場は、現在(2007年)大阪でジャズをやっている。」
- ^ 1971年、ルーファス・トーマス。
- ^ 1970年、ライブアットPJズ、ルーファス・トーマス。
- ^ 1970年、ライブアットPJズ、ルーファス・トーマス。
- ^ 1965年、オーティス・レディング。
- ^ 1966年、オーティス・レディング。
- ^ 1967年、オーティス・レディング他。
- ^ 上田、op.cit.[9]、p.61、86。「宮内は「サウス」を辞めて、アメリカに行ったんじゃなかったんかな。「ダウン・ホーマーズ」とかやっていたね。宮内は当時からジャズとファンクを意識した音を出していた。」
- ^ ヨースケ『父、宮内良和のこと。』[33]
- ^ 上田、ibid.[9]で、特典DVDとして提供されている。
- ^ パッケージには、TVKのコピーライトとして1974年との記載がある。
- ^ 1971年、ルーファス・トーマス。
- ^ ギターソロで有山を撮ろうとしたであろうカメラマンは、カズーを吹くクンチョーをアップにする。
- ^ 1970年、ライブアットPJズ、ルーファス・トーマス。
- ^ 1956年、エルビス・プレスリー。
- ^ 政岡としやの漫画『ダボシャツの天』(1973-1975年、「週刊漫画TIMES」、芳文社連載)の登場人物。松田天の兄貴分。
- ^ 1965年、オーティス・レディング。
- ^ 1968年、オーティス・レディング。
- ^ 2004年、MTCC-1003、P.S.C.。
- ^ 全12曲のうち、01. 野良犬、07. 彼と彼女、03. 街角、12. 家族は『GOLDEN☆BEST~Early Days Selection』(2002年11月、FLCF-3932、FOR LIFE MUSIC ENTERTAINMENT)16-19曲目で聴くことが出来る。
- ^ ドロップD。
- ^ フィドラー。
- ^ ベーシスト。西依と「ビジネス」結成。
- ^ 再発CDでは8曲目。1966年、「ラヴィン・スプーンフル」。
- ^ ちなみにB面: 03の上田正樹「WHEN A MAN LOVES A WOMAN」は、上田『ゴールデン☆ベスト Kitty Years & More』(op.cit.)、Disc-1: 14. で聴くことが出来る。
- ^ 初出: Various Artists『最後の春一番 春一番コンサート '79 vol.1』(1979年、SKD-1046、Bellwood Records)、B面: 01。当該vol.1と2を合わせて再発CD化。またオムニバスCD: Various Artists『帰る道はないだろう 春一番スペシャル・セレクション』(1998年、KICS-2237、Bellwood Records)13にも。
- ^ 「EAZY」ibid.[6]、pp.3-4。インタヴュアー「春一番の時に中西康晴とやったの面白かったね。」有山「ほんまに、オレはもっとああいった形のものをやりたいねん。・・・。あいつは元々クラシックやろ。・・・(中西は「サウス」で出会った)初めからずっとああいうのを弾いたし、その辺の「息」みたいなのはつかんでくれてると思う。春一番の時も、あいつはその日に来て・・・練習してへん。それでもできるし、そういう自信はあるわ。」
- ^ '90「SAKA-O-BAND」シングルの再演。
- ^ 1972年、ジェシ・デイヴィス。
- ^ 1975年、井上憲一。
- ^ 1929年、ブラインド・ブレイク。
- ^ 1933年、作: ハロルド・アーレン。
- ^ 1927年、ブラインド・ブレイク。
- ^ 1939年、作: ハロルド・アーレン。ジュディ・ガーランド。
- ^ 1992年、エリック・クラプトン。
- ^ 藤井裕と正木五郎でのベース&ドラムのユニット。
- ^ '09「季刊アコースティック・ギター・マガジン VOLUME40」でのおおはた雄一との書き下ろし曲、ソロ・バージョン。
- ^ BRUCE06『コピーライターの頭の中』[35]に示唆を得る。
- ^ 1972年、J.D.サウザー。
- ^ 京都のフォーク・シンガー。
- ^ 初出は『最後の春一番 春一番コンサート '79 vol.2』A面: 02。
- ^ '91ソロ作『MAKE A JOYFUL TIME』や'15金子マリ『BIRTHDAY LIVE 金子な理由(DVD)』で再演。
- ^ ジャズ・シンガー。
- ^ 「ハナサカ」のギタリスト。石田の弟子。
- ^ ジャズ・ドラマー。
- ^ ジャズ・クラリネット奏者。坂田明の師匠筋。
- ^ ジャズ・トランペット奏者。
- ^ 「ハナサカ」のボーカル。
- ^ 「KING SIZE」のドラマー。
- ^ 稲増はじめ。奈良のシティロックンローラー。
- ^ ジェームズ・ボンとともに、日本人として初めて、1984年レゲエ・サンスプラッシュに参加したレゲエバンド[36]。
- ^ ここではコーラスであるが、後の石田追悼盤(2019年)ではメインボーカル・ギターで参加。
- ^ その他、石田長生がギター、木村充揮がボーカル、島田和夫がドラムスでそれぞれ参加した曲もある。
- ^ たぬきのロクさん: ベース 細野晴臣、スティールギター 村上律。
- ^ 忌野清志郎がサックスとフルート、バッキング・ボーカルで参加。
- ^ 同年のV.A.『KUROちゃんをうたう』での「ゴンチチ」との共演、の再演。
- ^ なぜか表記されていないが、「星に願いを(1940、ネッド・ワシントン、リー・ハーライン)」が演奏されている。
- ^ 「KING SIZE」のギタリスト。
- ^ ジャズベーシスト。
- ^ オリジナルは、憂歌団『Rolling Steady』(1979年、3SB-1013、TRIO RECORDS)。B面: 01。
- ^ 1975年、憂歌団。
- ^ 1975年、憂歌団。
- ^ 同年、木村、有山『木村くんと有山くん』で再演。
- ^ 吉野五十一。ドブロのスライドプレイヤー。
- ^ 元「イタチ」の三井雅弘と、京都産業大学での後輩、大村章(ザビエル大村)とのラグブルースデュオ。
- ^ 1961年、ヘディ・ウエスト他。
- ^ 1982年、「タッチストーン」等。
- ^ そして、おそらく口笛も。
- ^ 土居"ベーカー"正和(Dr)プロデュース。一発どりインストアルバム
- ^ '10有山岸『そろそろおこか』で「Sukiyaki Blues」として再演。
- ^ '90「SAKA-O-BAND」シングルの再演。
- ^ オリジナルのほかには欧州に残る古謡なども歌ったり集めたり、弾き語り。
- ^ 1968年、「ドアーズ」
- ^ '06「シカゴロッカーズ」『ナニワジャングル明日はなし』「上を向いて歩こう」の再演。
- ^ 1994年、ジョニー・ギター・ワトソンに、日本語詞: 有山。
- ^ スワンプ・ロック・シンガー。
- ^ Zound System オリジナル(1993年)ではコーラス。
- ^ 『アリ・ヤ・マニア』(2013年)でソロ・バージョン演奏。
- ^ DVD内容は、有山が逐一細かいフィンガリングを説明するというより、彼の手癖等をインタヴュアーとの対話で、映像で確認しながら解いていく。「ほんまやなぁ。考えたことないワ。おっしゃる通りです。・・・」
- ^ 編集されている。
- ^ 2024年現在、DVD、BD化や配信等為されていない。
- ^ フリーディレクター。専門学校で30年以上、映画の事を教えている。
出典
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