花山院長親
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花山院 長親(かさんのいん ながちか)は、南北朝時代から室町時代にかけての公卿・学者・歌人・禅僧。大納言・花山院師賢の孫で、内大臣花山院家賢の子。母は出自不詳だが、歌人の「花山院長親母」である。南朝に歴仕、やがて出家して子晋明魏(ししんみょうぎ)と号し、4代将軍・足利義持から厚遇された。別号の耕雲(こううん)でも著名。
- ^ 『蔗軒日録』文明17年9月18日条
- ^ 『耕雲口伝』
- ^ 『新葉和歌集』雑下・1243
- ^ 『南朝三百番歌合』に「新中納言」と見える。
- ^ 『新葉和歌集』雑上・1035
- ^ 『二見文書』天授2年12月13日付口宣案の「上卿花山院大納言」を長親と推定する。
- ^ 『耕雲千首』奥書
- ^ a b 「耕雲老人寿像賛」(『東海璚華集』所収)
- ^ 『教言卿記』
- ^ 『満済准后日記』
- ^ 矢田勉 「『倭片仮字反切義解』の成立年代について」(『神戸大学文学部紀要』第32号 神戸大学、2005年、NCID AN00056024)
- ^ 『新葉和歌集』哀傷・1392の詞書に「右近大将長親、いときなき子におくれて侍りし比」とあるので、夭逝した1子のあったことが分かる。
- ^ a b 『系図纂要』による。この他、『兵家茶話』などによれば、長親は天野経政女・周防との間に一男を儲け、これが経政の養子となって工藤重貞を名乗ったというが、史料による裏付けを欠くために信じ難い。また、後小松天皇の後宮で一休宗純を生んだ「南朝遺臣の女」を長親の女子に比定する臆説も出されている(平山朝治)。
- ^ 後太平記 1899, pp. 160–165.
- 1 花山院長親とは
- 2 花山院長親の概要
- 3 系譜
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