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一休宗純

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/11/24 07:24 UTC 版)

一休宗純(いっきゅうそうじゅん)は、室町時代臨済宗大徳寺派詩人。説話のモデルとして知られる。


  1. ^ 一休皇胤説については、東坊城和長の『和長卿記』明応3年8月1日1494年8月31日)の条に「秘伝に云う、一休和尚は後小松院の落胤の皇子なり。世に之を知る人無し」とあるが、大徳寺真珠庵に残る一休の真筆「天の沢 東の海を 渡り来て 後の小松の 梢とぞなる」の歌や、『狂雲集』の「憶昔薪園居住時 王孫美誉聴相思(憶ふ昔薪園居住の時 王孫の美誉聴いて相思ふ)」という句などから、後小松天皇落胤であることが公認であったことが伺われる。『一休和尚行実』『東海一休和尚年譜』などの一休伝記類においても出自を後小松庶子とする。『読史余論』が引用する『南朝記』には、称光天皇の後の皇位継承者として一休を還俗させようとした後小松上皇院宣に対して「常磐木や 木寺の梢 つみ捨てよ よをつぐ竹の 園はふしみに」(「竹の園」は梁の孝王「修竹園」の故事から皇族のこと。「ふしみ」は伏見宮を指す)と詠んで持明院統正嫡の伏見宮彦仁親王を推し、皇位を辞退したと伝わる。
  2. ^ 母については、日野中納言の娘・照子姫(後に伊予局と称される)とも、藤原顕純の娘・藤侍従とも伝わるが確証はない。昭和36年に公開された『橘姓楠家倉氏系図』には、楠木正儀の三女が後小松天皇の官女となったが「仔細アリテ」退官し一休を生み、早世したと記されている。また、門真市三ツ島には一休の生母のものと伝わる墓があり、一休の母は楠木正儀の子・楠木三郎正澄の三女と説明されている。これらを考え合わせると、当時無位無冠だった楠木氏の女を後宮に入れるために藤原氏の養女としたという可能性もある。南北朝合一後のこととはいえ、まだまだ不穏な動きを見せていた南朝方の女が北朝後宮で皇子を生むことは難しかったものと考えられる。
  3. ^ かつて京都四条街大宮西に位置した禅寺で、現在は廃寺。足利直義によって後醍醐天皇以下、楠木新田一族ら戦没者の霊を弔うために建てられた。京都十刹の一つ。
  4. ^ 『東海一休和尚年譜』より。ただし、今泉淑夫は後花園天皇の即位は幕府の賛成によるもので一休の推挙は無関係だとしている。
  5. ^ 大徳寺第48世。虚堂智愚から7世、大徳寺開山・宗峰妙超からは5世(小松茂美編『特別展 日本の書』、東京国立博物館、初版1978年、図版257の解説より)。禅林墨跡#虚堂の法系を参照。
  6. ^ 宮内庁では落胤説にもとづいて「後小松天皇皇子宗純王墓」としている。


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