日高導入までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 00:25 UTC 版)
「トウショウボーイ」の記事における「日高導入までの経緯」の解説
天皇賞(秋)の頃より、複数の生産者によって「種牡馬トウショウボーイ」の誘致交渉が始まっていた。日高軽種馬農協では組合理事会を開き、トウショウボーイの購買額を協議。組合長を務めていた斉藤卯助(荻伏牧場代表)が2億円という高額を提案したが、当時は内国産馬の種牡馬価値に対する低評価が根強く、承認には1ヶ月を要した。理事会の承認後、斉藤と組合幹部の前川敏秋が交渉のためトウショウボーイ馬主・藤田正明(当時総理府総務長官)を訪ね、参議院議員会館に赴いた。日本中央競馬会からは2億円が提示されていたが、ここで藤田は売却に際し「価格2億5000万円、テスコボーイの種付け株を3年分、トウショウボーイの永久種付け権を年間3株」という条件を提示した。法外な要求に斉藤は激怒したが、最終的にこの条件を全て受け入れ、トウショウボーイは日高軽種馬農協浦河種馬場への導入が決定した。正式調印は天皇賞を25日後に控えた11月2日に行われた。事後に開かれた組合理事会で、斉藤と前川は「なぜこのような条件を受け入れたのか」と糾弾された。これに対し斉藤は「金額や条件の問題ではない。我々にはテスコボーイの後継種牡馬を育てる義務がある。トウショウボーイの導入は、日高軽種馬農協と組合員の将来を考えた馬政だ」と抗弁し、これを退けた。 東京から浦河へ輸送されるに当たっては、「天馬に相応しく」との藤田の提案により、1月16日に日本国内においては初めての航空輸送が行われた。
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