日本外交使節団の米国訪問
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/05 15:28 UTC 版)
「ポーハタン (蒸気フリゲート)」の記事における「日本外交使節団の米国訪問」の解説
1858年7月29日(安政5年6月19日)には、日米修好通商条約がポーハタンの艦上で調印されている。この批准書の交換のためワシントンに赴く日本の使節団を迎えるため、ジョサイア・タットノール代将の指揮の下、再び日本に派遣される。開港したばかりの横浜に1859年9月に到着したが、横浜には8日ほど停泊しただけで、上海に向かい、また横浜に戻る(これは日本と諸外国の金銀交換比率が異なることを利用して、利益を出すためだったと言われている。幕末の通貨問題参照)。 1860年2月13日(安政7年1月22日)、ポーハタンは正使の新見正興、副使の村垣範正、監察の小栗忠順らを含む日本使節団77人を乗せ横浜を出港した。同じく米国に向かった咸臨丸は2月9日(安政7年1月18日)に横浜を出港している。途中激しい嵐に遭遇し、石炭を使いすぎたため、補給のためにホノルルに寄港。サンフランシスコには米国に直行した咸臨丸より遅れて、3月28日に到着した。その後、パナマ地峡経由で東海岸に向かう日本使節団をパナマまで送っている。
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