日本初であることに関しての議論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 06:23 UTC 版)
「芋川椋三玄関番の巻」の記事における「日本初であることに関しての議論」の解説
本作品は劇場で公開された日本制作のアニメ映画としては最も古いものであると言われてきたが、確実な証拠は発見されていない。日本初とされてきたのは以下の2つの理由による。 雑誌「キネマ・レコード」の1917年7月号の記事「和製カートン、コメディを見る」において、天活が最初の作品をキネマ倶楽部にて1917年1月に上場(公開)したという記述があること 雑誌「映画評論」1934年7月号に掲載された下川凹天の回想記事「日本最初の漫畫映畫製作の思ひ出」において、最初に制作した作品が『芋川椋三玄関番の巻』であると述べていること しかし、当時の雑誌に掲載されている1917年1月の劇場上映作品リストに本作品の名前は存在しないこと、作品そのものについての資料が残っていないことなどから曖昧なものとなっている。 ただ、下川凹天の『凸坊新畫帖 名案の失敗』(1917年2月公開)が「第二次線畫トリツク(= 2つ目のアニメ作品)」とする記事が当時の雑誌に残っているため、少なくともそれ以前には最初のアニメ作品が上映されていただろうことは推測される。 2013年6月に公開された研究メモでは、 雑誌「キネマ・レコード」の1917年5月号の「フイルム見物 四月の巻」という4月に著者が劇場を回って見た作品を紹介する記事において、キネマ倶楽部で上映された「芋川椋三 玄關番の巻」が「天活第三次の線畫トリツクだ」とする記述がある 1934年の下川凹天の回想記事には、作品制作当時に月刊の映画雑誌が1つしかないと記述するなど事実誤認が見られる などの理由から『芋川椋三玄関番の巻』は少なくとも1917年1月に公開された作品ではなく(つまり日本初の劇場公開作品ではない)、最新の研究から1月に上映された国産初のアニメ作品は『凸坊新畫帖 芋助猪狩の巻』と推測されている。そして、『芋川椋三玄関番の巻』は時期が近いことから1917年4月28日に公開された『茶目坊新畫帖 蚤夫婦仕返しの巻』と同じ作品であるとする指摘もある。 また、本作品を最初の作品としながらも、『凸坊新畫帖 名案の失敗』を最初の作品とする可能性を指摘している書籍もある。 なお、本作品より10年前の明治末期に制作された可能性のあるアニメーションフィルム『活動写真』が発見されているため、日本最古の国産アニメーションという場合には1917年の本作品は該当しない。ただし、このフィルムは個人観賞用の物とみられ、3秒程度しかない。
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