日本を主戦場に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/16 16:18 UTC 版)
「エドウィン・バレロ」の記事における「日本を主戦場に」の解説
米国のコミッションにてライセンスが停止されたが、米国以外の国では試合ができた。そこに目を付けた日本の帝拳プロモーション・本田明彦会長の目に留まり、同プロモーションと契約して来日、家族と共に東京で生活を始める。 日本ではバレロより先に来日していた同国人のホルヘ・リナレスと共に帝拳ジムでトレーニングを行なった。 1年半近いブランクを経て、2005年5月21日のエルナン・バレンズエラ(アルゼンチン)戦で再起、ブランクを感じさせないファイトで初回KO勝ちを飾って以降は、その強さに対戦相手を探すのが困難になるほどだった。阪東ヒーロー(フォーラムスポーツ)との試合では「バレロが1RKO勝ちを逃せば、対戦相手に100万円を与える」という異例の賞金マッチであったが、公約通りに1RKO勝ちを収めた。1RKO勝ちが極端に多いバレロであったが、この試合が一番それを意識した試合だったと語っていた。 2006年2月25日、ベネズエラでワイベル・ガルシア(パナマ)を初回TKOに降し、WBAラテンアメリカ・スーパーフェザー級王座獲得。これでプロデビューから18戦連続初回KO勝利となり、歴代2位の記録となった。 2006年3月25日、神戸でノンタイトル戦を行い、2回TKO勝ち。連続初回KO記録こそ途切れたものの、デビューからの連続KO勝利は19に伸びる。 2006年8月5日、20戦目で世界初挑戦。パナマ・パナマ市でWBA世界スーパーフェザー級王者ビセンテ・モスケラ(英語版)(パナマ)に挑む。ダウンを奪われるなどの苦戦を強いられたものの、最後は10回2分00秒TKO勝ちを収め、王座奪取に成功。 2007年1月3日、有明コロシアムで初防衛戦。同級12位ミチェル・ロサダ(メキシコ)と対戦し、初回1分12秒KO勝ち。3試合ぶりの初回KO勝ちを収めた。 2007年5月3日、有明コロシアムで王座2度目の防衛戦を行った。これは指名試合だったが、同級1位のマニー・パッキャオ(フィリピン)はWBC王座挑戦を念頭に置きつつ、米国でのビッグマッチを計画中のため、同級2位の本望信人(角海老宝石)が繰り上がりで指名挑戦者となった。挑戦者のタフネスの前に苦戦を強いられたが、最後は8回1分54秒負傷TKO勝ちを収める。 2007年12月15日、メキシコ・カンクンで3度目の防衛戦。同級13位サイド・サバレタ(メキシコ)に3回1分18秒TKO勝ち。 当時の戦場であったスーパーフェザー級は、マニー・パッキャオだけでなく、ファン・マヌエル・マルケス、マルコ・アントニオ・バレラ(共にメキシコ)とスター揃いで、本人も彼らとのビッグマッチを望んでいた。 2008年2月中旬に米国テキサス州コミッションの健康診断をパスしてライセンスを取得した。 2008年6月12日、4度目の防衛戦。日本武道館で同級7位嶋田雄大(ヨネクラ)と対戦し、7回1分55秒TKO勝ち。この試合が日本でのラストマッチとなった。 その後ライト級に転向するため、2008年9月4日付でWBA王座返上。また夫人のホームシックから契約期間途中であったが帝拳との契約を解消し、ベネズエラへ帰国した。
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