新田荘遺跡
新田荘遺跡
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新田荘遺跡(にったのしょういせき)は、上野国新田郡(群馬県太田市)にあった荘園新田荘に関わる遺跡。荘域は上野国新田郡全域・勢多郡・佐位郡・武蔵国榛沢郡の一部に及び、おもに大間々扇状地と利根川左岸氾濫原からなる[1]。『延喜式』には上野国新田駅、『和名類聚抄』では新田郡駅家郷と記されている。中世武士団新田氏一族の根源地として成立し、長楽寺文書、正木文書によって文献史料の裏付けを可能とする東国の中世荘園として稀有な例である。2000年(平成12年)、新田氏遺構群のうち11箇所が国の史跡に指定され、「新田荘遺跡」として保存されている。
- ^ 田中大喜編『シリーズ・中世関東武士の研究 第3巻 上野新田氏』戎光祥出版 2011年6月 ISBN 978-4864030342
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 新田義兼後家「新田尼」より岩松氏へ伝領
- ^ a b c d e f g 世良田義季母より本宗家へ伝領
- ^ 惣領職に内包される新田氏一族は本宗系・世良田系・岩松系などであり、新田荘外に本拠を構え、独自に御家人役を勤仕し早期に独立した里見氏、山名氏は含まれないとする。
- ^ この分担は、世良田氏が鎌倉で勤仕し、岩松氏が在地で領導していたとされる。
- ^ 相馬重胤娘、岩松時兼妻
- ^ 岩松政経の子・岩松経家の嫡子
- ^ 新田荘に残存した新田氏一族は岩松氏惣領家を中心に再編されたと考えられる。
- ^ 守護領国制・一円知行を参照
- ^ 「『新田義重置文』正木文書3」
- ^ a b c d e f g h 「『新田義重譲状』正木文書2」新田義重は子・世良田義季とその母に譲る。大部分は世良田氏に伝領
- ^ 世良田氏庶流の得川頼有(下野守)が、得川・横瀬・下江田などを岩松経兼に嫁した娘「女子源氏」を通じて岩松政経(下野太郎)に譲渡した。
- ^ 1170年(嘉応2年)『上野新田荘嘉応年中目録』
(1455年(享徳4年)「新田荘田畠在家注文」(正木文書83)岩松持国が足利成氏に新田荘支配の正統性を主張するために提出した嘉応2年当時の荘域を示す史料) - ^ a b c d 里見氏に伝領
- ^ a b c d e f g 注釈に『さかいにとらる』とあり、1455年(享徳4年)当時、近隣に押妨されていた
- ^ 注釈に『さかいに半ハとらる』とあり、1455年(享徳4年)当時、近隣に押妨されていた
- 1 新田荘遺跡とは
- 2 新田荘遺跡の概要
- 3 史跡新田荘遺跡
- 4 外部リンク
固有名詞の分類
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