文壇登場
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1928年、「放浪時代」が『改造』第1回懸賞創作一等に入選すると共に慶應義塾大学医学部中退。1928年11月、『改造』発表の「アパアトの女たちと僕と」が谷崎潤一郎たちに絶賛され、「モダニズム文学」の作家としての評価を確立する。 1929年、同人誌『近代生活』を創刊。1930年、新感覚派と新人生派の新人作家との交流を中心にした「十三人倶楽部」を結成。同年、中村武羅夫らとともに「新興芸術派クラブ」を結成。1931年、「魔子」を発表。 吉行エイスケ、浅原六朗、久野豊彦たちと共に新興芸術派の中心的存在だったが、1934年、「M子への遺書」の中で当時の文壇の大御所菊池寛たちの実名を挙げて代作の横行など文壇の腐敗を攻撃し、このために文壇的地位を失ったと主張しているが(彼自身も川端康成の代作をしたことがあった)、臼井吉見は「川端康成政治家説の背景」(『文藝春秋』1977年8月)で、龍胆寺の被害妄想、誇大解釈ではないかとしている。1943年、長篇小説「鳳輦(ほうれん)京(みやこ)に還る─建武中興秘史 大塔宮と村上義光をめぐって─」が第18回直木賞候補となったが、落選。戦後、『放浪時代』は川端が社長を務める鎌倉文庫から復刊している。
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