教部省時代
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明治5年(1872年)2月30日上京、教部省設置に伴い3月24日九等出仕、3月25日記録課、5月4日編集課、5月24日八等出仕、6月27日日誌課、7月28日大教院調掛、8月30日大録となった。明治5年(1872年)福羽美静に自身の大祓復活案が認められ、式部寮と調整を行った。 明治6年(1873年)1月24日、キリシタンの活動が活発化した長崎への出張を命じられ、中教院の設置を進めたが、2月24日禁教令が解かれたことにより現場で混乱が生じたため、4月下旬真意を量るため急遽帰京、代理として物集高見が九州に派遣された。11月25日大講義兼務を解かれ、27日教部省考証課に配属された。 明治6年(1873年)民撰議院設立建白書の修正潤飾に関わり、明治7年(1874年)1月10日愛国公党結成に参加した。 明治7年(1874年)5月11日から9月6日まで第四大学区の広島県、鳥取県、島根県、北条県、小田県、愛媛県、山口県浜田県を巡回したが、6月14日山口中教院で今北洪川に出会い、明治8年(1875年)10月20日今北洪川を盟主として両忘会を結成した。 明治9年(1876年)11月2日教部省教務課に移ったが、明治10年(1877年)1月11日教部省は廃止された。卿部省では、福羽が離れた後も、中村光枝を通して知った吉見幸和の実事神道に基づく建言等を行ったが、新たに上層部となった黒田清綱、三島通庸等薩摩閥には受け入れられなかった。
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