播磨国分尼寺跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/10 00:12 UTC 版)
尼寺跡は、僧寺跡の北方約600メートルに位置する(位置)。かつては「毘沙門廃寺」と称された。寺域は東西約134メートル・南北約180メートルと推定され、寺域端では築地塀が認められている。主要伽藍は、南門(推定)・中門(推定)・金堂・講堂が南から一直線(僧寺跡と同様に主軸は約4度西に傾く)に配されたと見られる。遺構の詳細は次の通り。 金堂 本尊を祀る建物。基壇規模・建物規模は不明。基壇の一部と見られる盛土が検出されている。 講堂 経典の講義・教説などを行う建物。推定雨落溝により基壇規模は東西23.3メートル以上・南北16.2メートルと推定されるが、基壇自体は検出されていない。 回廊 金堂・中門を結ぶ屋根付きの廊下。金堂左右から出て中門左右に取り付く。規模は東西約60メートル・南北約45メートルと推定される。 以上のほか、井戸2基・掘立柱建物2棟なども検出されている。また寺域からは、土師器・須恵器をはじめ、国産施釉陶器、貿易陶磁器、黒色土器、瓦器、製塩土器、転用硯、吸子羽口、砥石、磨石、漆椀、曲物、櫛などが出土している。以上の出土遺物などにより、13世紀初頭頃までの存続が推測される。 なお徳証寺(徳證寺、姫路市御国野町御着)の寺伝によれば、同寺は国分尼寺の後継寺院であり、初めは真言宗であったが明応5年(1496年)に浄土真宗に転じ、天文年間(1532-1555年)初年に御着城主小寺氏の帰依で御着城内に移転したという。 軒丸瓦・軒平瓦兵庫県立歴史博物館展示。
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