拳架とは? わかりやすく解説

拳架(陳式套路の各種スタイル)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/20 10:22 UTC 版)

陳家太極拳」の記事における「拳架(陳式套路各種スタイル)」の解説

起源については現在も議論がある。武術研究家唐豪以来通説は、元朝加担したため明の太祖洪武帝による「犬の子一匹生きて残すな」という殺戮によって無人地帯化していた河南省温県常陽(現・陳家溝村)に1374年一族の長老、陳ト(これを陳氏初世とする)に率いられ強制移住させられ陳氏一族家伝として伝えられていた武術起源であるとされる。その制定者についても諸説ある。陳氏九世陳王廷1600年頃 - 1680年明末の文痒生、清初の武痒生)が家伝武術陳氏一族温県強制移住命じられるまで住んでいた山西省臨汾市洪洞県に今も伝わる通背拳か?)や、戚継光の『紀效新書』、諸家武術参考創始したとする説が有力である。 陳氏十九世陳小旺によると、陳王廷制定した套路は、洪砲捶百八拳、五套捶、陳式長拳十五洪、十五砲の五種陳氏十四世陳長興煩雑な套路整理し一路(洪砲捶百八拳、五套捶)、二路(陳式長拳十五洪、十五砲。これを砲捶とも呼ぶ)を制定した。これを老式と称する。 さらに陳氏十四世有本有恒兄弟が(世代は同じであるが年代的には少し下がる)これを小式に改変し、以後陳長興制定したものを老式、陳有本有恒制定したものを新式と呼んで区別していた。その後陳氏十七陳発科陳氏中興の祖称される)が新たに式(大式)を制定するに及び、以後、陳有本制定した式を小式と称するようになった。但し、正式な制定中華人民共和国成立後のため、今も台湾では小式を新式と呼んでいる。そのため日本では呼称混乱みられる陳式太極拳広く外部伝わったのは中華民国初年第十八世陳照丕北京当時北平)に出てからだと言われる。照丕が当時首都南京中央国術館呼ばれ代わりに北平赴いたのが陳発科である。そういった関係で陳家溝以外では新式が専ら行われているが、南京付近では老式も普及している。 この他陳氏スタイルとしては陳有本の甥で、陳家溝の隣村の趙堡鎮に婿入りした陳清萍の拳架である趙堡式と、陳清萍弟子李景炎によって考案され忽雷架式がある。 陳式学習者の間では大式に対し式、趙堡式、忽雷架式は、形的には非常に似ていて同一視され易い傾向にあるが、動作的にはどれも特徴ある表演演武スタイルをとる拳架である。 陳式太極拳理論書としては、陳鑫(陳品三)の陳氏太極拳図説陳氏式の拳譜)などがある。また、明代戚継光編纂した紀効新書本文十八巻の一つである拳経には、陳式太極拳共通する技法見られる

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