戦役後の和平交渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 09:46 UTC 版)
和平交渉は徳川家康によって委任を受けた対馬の宗氏と朝鮮当局の間で進められた。とはいえ、日本国内では「徳川家康が再出兵を計画し、対立している諸大名たちを朝鮮に送り込もうとしている」という不穏な噂が流れていた。 日本は断絶していた朝鮮との国交を回復すべく、朝鮮側に通信使の派遣を打診し、それを受けて朝鮮朝廷はまず日本の内情探索のため1604年に探賊使として惟政を対馬に派遣したが、征夷大将軍徳川家康は宗義智に命じて京まで呼び寄せ、1605年(慶長10年)上洛して伏見城で会見した。惟政は日本側の実権が徳川に移ったことと家康の和平の意向を確認し、その後朝鮮より正式な使節である回答兼刷還使が派遣されて和平が果たされたのは、1607年(慶長12年)二代将軍徳川秀忠に対してであった。 明は日本と国交を結ばないまま滅亡し、明に代わって中国を支配するようになった清は、すでに日本が鎖国を取ったため貿易は行うが、正式な国交を持とうとはしなかった(海禁も参照)。
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