怪我の挫折から文学青年へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 15:12 UTC 版)
「大塚徹 (詩人)」の記事における「怪我の挫折から文学青年へ」の解説
兵庫県姫路市堺町で質屋を営む大塚捨次の三男として生まれる。母・まさは芸に秀で、若い頃の桂米朝、坂東大蔵らが出入りしていた。長兄が出奔し、次兄が早逝したため、時計古物商を営んで父母を養ったという。 旧制姫路中学3年在学時、飾磨港で水泳中に飛び込みをし、脊髄を損傷、3年間闘病する。その後脊髄カリエスも患い、一生疼痛と闘うこととなる。全身不随で姫路赤十字病院に入院中に、母まさより機能回復訓練代わりにハーモニカを与えられ、熟達しのちにミニハーモニカバンドなども結成した。また次兄信雄より与えられた啄木詩集が、文学の道を志すきっかけとなる。 1928年(昭和3年)、松本重雄、竹内武雄ら姫路中学の同窓と、回覧雑誌『椿』を創刊し、文芸活動の道に入る。のちに木坂俊平も合流し、彼のすすめで東京の投稿誌『現代文芸』に詩などを投稿するとともに、現代文芸姫路支部を結成した。
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