後藤基次
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/30 01:09 UTC 版)
後藤 基次(ごとう もとつぐ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。黒田氏、豊臣氏の家臣。通称は後藤 又兵衛(ごとう またべえ)。
- ^ 筑前六端城 | テーマに沿って城めぐり | 攻城団
- ^ 『播磨鑑』によると、基次が5,000石、神西不楽が3,000石である。
- ^ 浪人した時期は慶長18年(1613年)6月、池田輝政の死後とも[8]
- ^ 長宗我部盛親、毛利勝永、真田信繁(幸村)の大名格3人に、基次、明石全登を加えた5人。
- ^ およそ8時間戦っていたという俗説があるが、これは誇張表現。徳川方が後藤隊を発見したのが午前2時、奥田が抜け駆けをしたのが午前4時。予定通り背後に回り込んだ水野隊が片山村から攻め上がり、伊達政宗、松平忠明らが総攻撃を開始したのが午前9時。薄田兼相が打ち取られのは午前10時。基次は人知れず自害しているので最期の時刻は不明ながら、兼相より先である。
- ^ 『十六・七世紀イエズス会日本報告集』では、「又兵衛軍は激しく攻めたてられ、内府軍はほとんど何の苦もなく勝利を得た。」と書かれている。
- ^ 夜間の出立時刻を霧のために誤ったとされる。
- ^ 但し、母里友信の2万石を除けば、栗山利安など、他の宿老たちと同格以上であり、大隈城も東方国境線「筑前六端城」最大の要衝である。
- ^ 大阪府柏原市にも顕彰碑が建立されている。
- ^ 『後藤基次』 - コトバンク
- ^ a b c 貝原益軒『黒田家臣伝』
- ^ 綿谷雪『実録 後藤又兵衛』
- ^ 本山, p. 165.
- ^ 本山, p. 166.
- ^ a b c d e f 湯浅常山『常山紀談』
- ^ a b c 渡邊大門「牢人後藤又兵衛基次考」(『十六世紀史論叢』5号、2015年)
- ^ a b 本山, p. 170
- ^ a b 『武功雑話』
- ^ 『大坂御陣山口休庵咄』
- ^ 『芥川文書』
- ^ 『細川家記』
- ^ a b 『北川覚書』等。
- ^ a b c 長沢九郎兵衛『長沢聞書』
- ^ a b c 真田増誉『明良洪範』
- ^ 古老物語
- ^ a b c 『新東鑑』
- ^ 耶馬溪の史跡「後藤又兵衛の墓」
- ^ 後藤又兵衛と伊福の里
- ^ a b 平野庸脩『播磨鑑』
- ^ データベース『えひめの記憶』伊予市誌
- ^ a b 【市指定文化財】後藤又兵衛基次公菩提所<史跡>
- ^ 吉本健二著真説大坂の陣P183
- ^ 『黒田家臣伝』「後藤又兵衛伝」
- ^ a b 貝原益軒『黒田家譜』
- ^ 『菅氏世譜』
- ^ 則松弘明『呪詛の時空 宇都宮怨霊伝説と筑前黒田家』(海鳥社)p.96-97
- ^ 『新書太閤記』
- ^ 『森本儀太夫筆記』
- ^ 『志士清談』
- ^ 『難波戦記』
- ^ a b 『大坂御陣覚書』
- ^ 『日向守覚書』
- ^ “幸村と並ぶ英雄、後藤又兵衛”. 産経新聞 (2015年3月14日). 2016年11月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年10月17日閲覧。
- ^ 吉本健二著真説大坂の陣P177
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